概要
シクロフスキーはロシア・フォルマリズムの中心メンバーで異化理論の提唱者である。詩的言語と散文とでは本質的に何が違うのか、この問い掛けの中で異化の概念が出てくる。そして「手法としての芸術」でこの理論が展開されるのである。他、スターンや『ドン・キホーテ』の構成についても論じている。はじめに
僕は文学部のような学部に在籍していまして、その時に『文学部唯野教授』*1をゼミの担当教官から勧められました。文芸批評の主要テーマを唯野教授が講義形式で紹介する内容で、その中にロシア・フォルマリズムについて載っていたんです。しかしその時は気にも留めていませんでした。ロシア・フォルマリズムを本格的に意識し始めたのは詩について調べていた時です。どうも異化の概念が重要だと解って以来、シクロフスキー『散文の理論』が気になっていました。しかし、なかなか手が出せずにいました。ロシア・フォルマリズム文学論集を図書館で借りたのを機にシクロフスキー『散文の理論』を借りてきました。
本を図書館で予約したにもかかわらず、相互貸借になってたんです。司書さんに尋ねたら「本を探したけどなかったので、相互貸借を使いました」とのこと。
問題意識
シクロフスキーは序文で「文学理論のなかの文学の内的な法則を検討しつくしたいと思っている」と述べています。普遍的な科学へ
シクロフスキーに限らず、ロシア・フォルマリズムの論客は文芸批評を普遍的な学問にしたいと考えていました。例えば、エイヘンバウムは「固有の特質における具体的な素材の研究によって示唆された若干の理論的原則についてのみ、われわれは語る」*2、また「われわれを特徴づけるものがあるとしてすれば、（中略）文学素材の固有な特質に基く、自立した文芸学を創始せんとする志向のみである」*3と書いています。また言語学者のヤコブソンもロシア・フォルマリズムに賛同し、マヤコフスキーなどの詩を論じていますが*4、下記の通り当時の文芸評論に対する不満を募らせています。
文芸学が対象とすべきは文学ではない。文学性、つまり、ある作品を文学作品たらしめるもの、である。（中略）文学史家にとっては、何もかもが必要というわけだ──風俗も心理学も政治も哲学も。文芸学に代って、素人雑学の寄せ集めが現れる。そんな労作はそれぞれの学問分野に、つまり、哲学史、文化史、心理学等々に分解・還元されてしまうにもかかわらず、また、これらの諸分野に於ても、文学作品が、当然、不完全な二次資料として流用されるにもかかわらず、それらのことが、まるで忘失されていたかのようなのだ。文芸学を一つの学問たらしめるには、まず《技法》をその唯一の《主人公》と認める必要がある。その上で根本問題となるのが、技法の適用、技法の正当化の問題である。当時の時代背景、作者の精神分析、作者の思想信条などの分析こそが文学評論だと考えられていました（し、今でもこの分析は行なわれています）。もちろん精神分析や作家の私生活・思想信条からのアプローチも間違いではありません。しかし、時代背景、作家の私生活を離れて分析していない以上は、自立してはいないのです。そして時代が変われば結論も変わってくる以上、普遍性の問題ともつながってくるといえましょう。
このような共通意識のもと、シクロフスキーたちはその名の通り、文体・構成・技法などの形式から文学へアプローチしました。フォルマリズムのフォルムとは、formから派生していると推察できるように、文学の形を意識していたのです。
シンボルへの批判
当時は象徴主義の詩が流行していました。象徴とは抽象的な概念を具体的な事物で置き換える技法で、例えばボードレールは下記の詩を詠んでいます*5。蟻のような雑踏の都会、夢また夢にあふれる都会、ここでボードレールの詩を詳細に論評するのは避けますが、老人は死への恐怖などを表していると解釈できましょう。つまり死への恐怖という抽象的な概念を、老人という具体的な事物で置き換えているのです。これが象徴なのですが、どのような時にでも老人が「死への恐怖」を表すかと言えば、文脈に依存します。例えば、キケロは老人を「研究や学問のようなものが幾らかでもあれば暇のある老年ほど喜ばしいものはない」*6と言っていますし、芥川の「杜子春」では老人を知恵の象徴として描いています*7。
亡霊が真昼間から通行人の袖を引く町！
不思議がどこにでも行き渡っている、液が
逞しい人のこまごまとした血管を流れているように。
（中略）
突然、一人の老人が 黄いろっぽいぼろ服の
この雨もよいの空そっくりの色をしたのを身につけて、
見るからに施し物の雨でも降らせかねない格好で、
ただし目だけはぎらぎらと意地悪そうに光らせて。
（中略）
ものが二つに見える酔いどれのように頭へ来て
一目散に家へ帰って、戸をしめた、恐怖にふるえ、
病気になって骨まで凍え、精神は熱に浮かされて錯乱した。
傷ついたのだ この不思議な 理屈に合わない出来事に！
私の理性が舵を握ろうとしたけれど無駄だった。
嵐が荒れ狂って、その努力をくつがえし、
私の魂は踊った、踊った、古ぼけた艀となって、
帆柱もなく、魔もののような涯ない海の上で！
このように老人ひとつ取っても当然ながら作家ごと、作品ごとにどういう象徴で使われているかが違い、普遍性がありません。しかし、象徴が詩の要因であることは事実。解決するには象徴の理論を包括しながら、新しい理論を構築しなければなりません。
したがって「〔詩的〕イメージによる思考は、芸術の全ジャンル、いや、それどころか文学の全ジャンルすら統一するものではないし、イメージの変化が詩の変遷の本質を構成しているともいえないのである」としながらも「わたし自身としては、イメージのあるところならどこにでも非日常化が行なわれていると考えている」と書いたのです。
異化とはなにか
ここで、非日常化と異化は訳語の違いに過ぎません*8。現在、異化と翻訳されることが多く、またWikipediaでも異化で見出し語を取っているので、ここでは異化で統一します。下記の文章は異化の説明でよく引用されます。生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石ころを石ころらしくするために、芸術と名づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに、見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法であり、そして知覚程過が芸術そのものの目的であるからには、その過程をできるかぎり長びかせばならぬがゆえに、知覚の困難さと、時間的な長さを増大する難解な形式の方法が芸術の方法であり、芸術は事物の行動を体験する仕方であって、芸術のなかにつくりだされたものが重要ではないということになるのである。例えばトルストイは「事物を通常用いられている名前で呼ばずに、事物をはじめて見たもののように記述し、また事件もはじめて起こったように描き、しかも事物の描写に当たっては、広く認められている事物の部分の名称を使用せずに、ほかの事物と対応する部分の名称で事物を名づけている」とシクロフスキーは語っています。例えば笞刑を「（前略）裸にし、床の上に倒し、尻を笞で叩くこと」と書いています。刑罰というよりもマゾヒスティックな小説のような印象を僕は抱いてしまいましたが、まさに笞刑の意味をずらしていると言えましょう。
また動物、子供、外国人の視点で書くと、異化は定義上起こりやすいと言います。例えばトルストイの『ホルストメール』は馬の一人称視点で語られますが、「私有財産」の概念が理解できないので、独自の概念で長々と語っています。
夏目漱石の『吾輩は猫である』もまた動物の一人称で書かれていますが、異化作用が働いています*9。
吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘わがままなものだと断言せざるを得ないようになった。ことに吾輩が時々同衾する小供のごときに至っては言語同断である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、抛り出したり、へっついの中へ押し込んだりする。しかも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら家内総がかりで追い廻して迫害を加える。この間もちょっと畳で爪を磨いだら細君が非常に怒ってそれから容易に座敷へ入れない。台所の板の間で他が顫えていても一向平気なものである。この他にもマーク・ハットンの『夜中に犬に起こった奇妙な事件』*10はアスペルガー症候群の少年が殺人事件ならぬ「殺犬事件」を解くのですが、定型発達者の不思議さが戯画的に描かれています。さらにドナ・ウィリアムズの自伝『自閉症だったわたしへ』*11では、友人のティムから優しさを受ける時、下記の通り綴っています。
あんたなんかに会いたくない、帰ってよ、とウィリー（注：ドナの別人格）は怒鳴った。しかしティムはわたしの手を取ると、わたしにやさしくキスをしたのだ。わたしは両手で乱暴に彼を押しのけた。親密さは痛みに感じられて、耐えることができなかった。ティムは立ち尽くしたまま、そうやってわたしが一人で自分と闘っているのを、見つめていた。これもまた「親密さは痛みに感じられて、耐えることができなかった」とある通り、異化作用が働いていると言えましょう。
また性的描写も非日常化されやすいと『デカメロン』を例示しながら述べています。
構成
さて、シクロフスキーは構成についても述べています。一般論として、「普通、物語は展開してゆくにつれて複雑で環状的で段階的な構成の組合わせから成り立っている」と述べています。長篇小説な構成として、まずシクロフスキーは千夜一夜物語を挙げています。千夜一夜物語は枠物語の構造を取っており、大きな枠としてはシェヘラザードが王様に語って聞かせる話、枠の中としてはその内容となっており、船乗りシンドバッド、アリババなどの話が組み込まれています。そして、枠の中の物語も少しずつ関係していくのですが、別に枠物語でなくともこの関係は成立します。
例えばアプレイウス『黄金のロバ』のルシウスは間違って自分をロバに変えてしまい、もとに戻るため、様々な冒険をするのですが、最初と最後だけが決まっており、あとの中身は統一性がありません。オウィディウスの『変身物語』も時系列順に変身譚をまとめただけで、神々を除いて、登場人物同士が影響を及ぼすことはないのです*12。
これをシクロフスキーは数珠つなぎの物語と呼び、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』*13もこの変形だと論証しています。『トリストラム・シャンディ』は架空の人物トリストラム・シャンディの自伝……なのですが、物語は射精した瞬間から始まります。その後も叔父や父について語り、細部にこだわりつづけ、いつまで経っても前に進みません。この前衛文学も自伝執筆の計画をシェヘラザードの話、一つ一つの「脱線」をシンドバッドやアリババの話のように考えれば、千夜一夜物語と同じ構成になると言います。
枠物語と併せて「一般的に言うならば、枠組〔枠物語〕の方法も数珠つなぎの方法も、いずれも長篇小説の歴史においては、挿入されるべき素材がますます緊密に長篇小説そのもののなかに入りこんでゆく方向に発展していったと言えよう」と語っています。
つまり、登場人物、小道具など物語内の素材同士の結びつきが強くなってきていると言っているのです。そのような点で言えば本格推理小説は二つの意味で重要となるかもしれません。
（１）作品内の素材がある一つの解決に収斂していく（多重解決*14を除く）
（２）シリーズ物について言うなら、登場人物がまた別の作品で登場する。つまり作品外でもつながっている。
（２）について言えば、推理小説以外にもバルザック*15やゾラ*16が人物再登場の手法を使っていますし、フォークナーは人物のみならず、舞台も同じにしました*17。またアガサ・クリスティはポアロの事件に、マープルの住むセント・メアリ・ミードを登場させるなど*18、別のシリーズ同士をつなげています。さらにラヴクラフトのクトゥルフ神話は「パルプ・マガジンの作家であるハワード・フィリップス・ラヴクラフトと友人である作家クラーク・アシュトン・スミス、ロバート・ブロック、ロバート・E・ハワード、オーガスト・ダーレス等の間で架空の神々や地名や書物等の固有の名称の貸し借りによって作り上げられた」*19ともある通り、作家間すら超えています。
シクロフスキーたちロシア・フォルマリズムの論客の学説を補足するなら*20、上記のようになります。マルクス主義の唯物史観からか文学が進化すると考えているのかもしれませんが、変化こそすれ、進化はしないと僕は思っています。連作短編集など、古典的な構造を持った小説が淘汰されたわけではありません。
秘密
秘密とは推理小説に限らず、ディケンズやモーパッサンなどの純文学とみなされている作家も使っています。短篇小説については、コナン・ドイル「まだらの紐」を分析しており、ほぼ毎回同じ流れになると指摘、ポーの「黄金虫」の流れと比較し、類似性を論証しています。短篇、長篇、双方に共通していえるのは「比較ではなく、ある対象によってべつの対象を駆逐しようとする事実である」と述べています。例えば多くの推理小説では、最後、ミスリードであると明かされますが、ミスリードと真相を単純に比較しれているのではありません。ある言動はミスリードであり、つまり、真実ではない、と否定の形で現れてくるのです。
またサンプルが少ないせいかもしれませんが、「秘密をもった長篇の歴史は《解決》が本来の意義を失ない、（中略）不必要になるという点に存在する」と語り、下記の通り述べています。
長篇小説のなかに物語を展開させる際には、謎解きの契機はますます意味を失なってゆく。対比のほうが中断よりも優位に立っているのである。例えば、コナン・ドイルの『四つの署名』*21、あるいは『緋色の研究』*22などは過去と現在、『恐怖の谷』*23はイギリスとアメリカの対比、『バスカヴィル家の犬』*24は都市と田舎の対比で書かれています。しかし、1925年時点でも長編推理小説の幕開けである『トレント最後の事件』は1913年に発表されており、辻褄が合いません。
秘密を持つ長篇小説について、小さなドリット、つまりリトル・ドリットを例示しながらリトル・ドリットは複数の謎が同時平行で進むと語ります。しかし、リトル・ドリットに於いては、ホームズと異なり特定の人物が謎を解くのではありません。現代の批評用語で言えば、三人称の〈語り手〉が解決を提示しているのです。
*1 筒井康隆『文学部唯野教授』（岩波書店）
*2 ボリス・エイヘンバウム「「形式主義的方法」の理論」『ロシア・フォルマリズム文学論集1』（せりか書房）
*3 同上。
*4 ロマン・ヤコブソン「最も新しいロシアの詩」『ロシア・フォルマリズム文学論集1』（せりか書房）
*5 シャルル・ボードレール「七人の老人」（安藤元雄・入沢康夫・渋沢孝輔［編］『フランス名詩選』岩波書店）
*6 キケロ『老年について』（岩波書店）
*7 芥川龍之介「杜子春」（青空文庫）
*8 「水野忠夫（1970）．「《非日常化》の概念をめぐって」を読む（『すばる』）」『英語教育学・文学理論・言語理論の接点でもがく研究者の読書日記』
*9 夏目漱石「吾輩は猫である」（青空文庫）
*10 マーク・ハットン『夜中に犬に起こった奇妙な事件』（早川書房）
*11 ドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』（新潮社）
*12 Wikipedia「変身物語」
*13 Wikipedia「トリストラム・シャンディ」
*14 例えばアントニー・バークリー『毒入りチョコレート事件』など（アントニー・バークリー『毒入りチョコレート事件』東京創元社）
*15 Wikipedia「ゴリオ爺さん」
*16 Wikipedia「ルーゴン・マッカール叢書」
*17 Wikipedia「ヨクナパトーファ郡」
*18 アガサ・クリスティ『青列車の秘密』（早川書房）
*19 Wikipedia「クトゥルフ神話」
*20 ユーリー・トゥイニャーノフ「文学の進化」『ロシア・フォルマリズム文学論集2』（せりか書房）
*21 コナン・ドイル『四つの署名』（新潮社）
*22 コナン・ドイル『緋色の研究』（新潮社）
*23 コナン・ドイル『恐怖の谷』（新潮社）
*24 コナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』（新潮社）
ファーブラとは読者が知る順番であり、現代の批評用語で言えば、〈語り〉*19の構成と大きく関わっています。例えば刑事コロンボのような倒叙推理では犯人が最初に提示されますが、作品内の事件そのものは普通の推理小説と変わりません。刑事コロンボの視点から書けば、普通の推理小説になります。プロットもストーリーも同じですが、ファーブラだけが違うのです。
