有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

倒叙

ウイリアム・リンク、リチャード・レビンソン『パイルD-3の壁』(二見書房)

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パイルD-3の壁 刑事コロンボ(7) (サラ・ブックス)

あらすじ

 建築設計士のマーカムは依頼主である口論の末、ボー・ウィリアムソンを殺害。しかし死体が見つからない。ボーの元妻、ゴールディーは殺害されたと主張して止まないが、神託だと言う。
 一方のマーカムは一旦死体を隠しおおせたものの、絶対に見つからない場所に隠そうと画策していた……。そこは建築現場のパイルの真下だった。タワービルが完成すれば、これを解体して掘り起こさなければならないのだ。

はじめに

 図書館で借りてきた本をすべて読み終えたのですが、翌日には次の予約を取りに行かなければなりませんでした。そこで『パイルD-3の壁』を職場の休憩時間に読むことで、読書のスケジュールを調整。
 一つ解った癖があります。僕が積読本を読むと、偏執的に同じ作家の本を消化するのです。例えば、『幻のダービー馬』、『死者のギャンブル』……。刑事コロンボのノベライズばかり読んでしまっています。

翻訳の問題

 僕が職場で読もうと思った理由はもう一つ。最初の一、二ページ読んでみて翻訳が肌に合わない点にありました。例えば、「これはまだ模型なので、ビルディングのなかをご案内するわけにはいかないのが残念だけど」とマーカムは若妻、ジェニファーに言っています。
 相手が親しい間柄なら「だから」のほうが自然ですし、ビルディングも時代柄仕方がないのですが、今なら「ビル」と言うでしょう。このような翻訳上の不自然さがありながらもやっぱり読んでおきたい。一生読まないでしょうし、そうしたらブックオフでの105円が無駄になる。職場の休憩時間なら他に本がない以上、『パイルD-3の壁』を読むことになります。この方法で読了しました。

相棒で似たような話が

 建設現場に遺体を隠すのは相棒の『ボディ』にもありました。両方ともわざと探偵役に一度掘り起こさせて、遺体はないと確認させてから、その場所に埋めます。もちろん、『パイルD-3の壁』のほうが先に発表されているのですが、『パイルD-3の壁』のほうが、この場面だけ取り出しても*1、ドラマの演出としてよくできています。『ボディ』の場合は昼間なので、太陽光線での撮影です。
 一方の『パイルD-3の壁』は夜、ボー・ウィリアムの死体を埋めに行きます。したがってマーカムへサーチライトを当てる形になっており*2、光線の加減でより際立っているのです。夜中の建築現場でうごめく影に光を当てた途端、マーカムが浮き彫りになる場面は、彼が犯人だと解っていても緊迫感に溢れています。さらに今まで逃げおおせていたことをうごめく影で、コロンボに真相が暴かれることを光でそれぞれ表現しているとも解釈できるでしょう。

ゴールディーの役割

 今までいくつかコロンボのノベライズを読んできましたが、『パイルD-3』は死体が最後の最後で出てくる点で珍しいと言えるでしょう。つまり、「冷たいスミス&ウェッソン(中略)の短い銃身がウィリアムソンの頬の肉に食い込んだ」とあるように、銃を持ってウィリアムソンを襲う場面は描かれていますが、殺害の場面が描かれていないのです。
 拳銃の発砲音くらいなら描写してもさほど支障はありませんが、いずれにせよ、殺害後のマーカムがどう行動したかをコロンボは解き明かしていくのです。したがって殺害後の行動は三人称の〈語り手〉は伏せておかなければなりません。
 しかし前提条件、つまりウィリアムソンが死んでいることについてなどは読者に報せなければいけないのです。そうかと言って、物語上、犯人しか知らないはずですので、通常の方法ではゴールディーも必然的に共犯になってしまいます。ゴールディーの神託は三人称の〈語り手〉と読者をこのようにつないでいるのです。
 一見すると、古畑任三郎の花田に似ているかもしれません。確かに両方とも探偵役に犯人しか知りえないことを教えています。しかし、花田は視聴者と情報を完全に共有しているのに対し、ゴールディーは読者が薄々勘付いていることを確定させていると言えるでしょう。

殺人と都市

 建築家が犯人ですが、原題も「Blueprint For Mueder」、意味は建築家に近づけるなら「殺人の見取図」、Blueprintの色彩感覚を活かすなら「殺人の青写真」もいいかもしれません。

原題について

 いずれにせよ『パイルD-4の壁』は原題から掛け離れています。別に刑事コロンボでは珍しくありませんが、原題のほうが計画を設計図に見立てているので、小洒落ています。Blueprintの青とMurderから連想させる血の赤で色の対比も現しています。
 原題からも解るように『パイルD-3の壁』で殺人と都市は関係性のあるものとして表されています。無名の労働者を埋めたのなら、隠喩も読み取れるでしょうが、名士のボー・ウィリアムソン。「あんたの墓石は私がデザインしてやる」と言うマーカムの台詞と、ピラミッドの講義から死後の扱いについて読み取れると思います。

二つの死生観

 古代の権力者はピラミッドに葬られましたが、ボー・ウィリアムソンはウィリアムソン・シティーの下にすら埋めてもらえません。埋めようとした途端、コロンボ警部に妨げられるのです。ここから古代エジプトとは異なり、権力者は死後、平等に扱われることの表れともいえるでしょう。
 一方で、欧米文化では都市や橋の名前に人名を付けます。例えばアグリッパ街道はマルクス・ウィプサニウス・アグリッパに由来、ド・ゴール空港はシャルル・ド・ゴールに由来、ベケット橋はサミュエル・ベケットに由来……。つまり肉体は死んでも都市の名前として、死後も残るのです。つまり『バイルD-3の壁』からは二つの死生観が現れていると言えるでしょう。
(1)権力者も死体は平等に扱われる
(2)ボー・ウィリアムソン・シティーのように権力者の名前は死後も残る。


*1 『ボディ』は最後にもう一捻り加えてあるのだが、これは取ってつけたような印象を受けた。
*2 ピーター・フォーク[主演]「パイルD-3の壁」(ピーター・フォーク[主演]『刑事コロンボ傑作選 パイルD-3の壁/黒のエチュード』(ジェネオン・ユニバーサル)
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ウイリアム・リンク、リチャード・レビンソン『幻のダービー馬』(二見書房)

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幻のダービー馬―新・刑事コロンボ (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

あらすじ

 牧場主のグレアムは道楽三昧の弟、シオドアを射殺する。彼は競馬の八百長に加担しており、その上、マフィアのブルーノから手切れ金を要求されていたのだ。彼らが殺し屋を雇ったように、ブルーノは強盗に押し入ったように装い、正当防衛を主張していた。しかしコロンボ警部はポケットに入っていたハズレ馬券に目を付ける。

はじめに

 図書館から借りてきた本を全て読み終えたので、積読本の消化に取り掛かりました。放映時のタイトルは「奇妙な助っ人」なので原題の「STRANGE BEDFELLOWS」を直訳したのでしょう。原題をそのまま訳さなかったのはいくつか理由が考えられますが、グレアムがブルーノを殺害した時点で展開がある程度、読めてしまことが挙げられます。幻のダービー馬にした場合、この問題は回避されるのです。ただ小鷹信光が「幻のダービー馬」と翻訳した理由は、作中でしか登場しないからで、ある意味メタフィクションと言えるでしょう*1。
 残念なことにケンタッキー・ダービーに出走した十九頭のなかにはフィドリングブルの姿はなかった。幻のダービー馬フィドルが、今年のケンタッキー・ダービーに出走したことを知っているのは、馬主のグレアム・マクヴェイと作中の登場人物、そして読者であるあなただけである。
 もう一つ、注目すべき点は翻訳者。ハードボイルド作家の小鷹信光が訳しているのです。松田優作が主演した『探偵物語』の脚本家。もちろん彼自身も英語が堪能で、ミッキー・スピレインやロス・マクドナルド、ダシール・ハメットなどを翻訳していますが、いくらマフィア絡みとはいえ、刑事コロンボを翻訳しているとは意外でした。
 調べてみたら、刑事コロンボは他にも『探偵の条件』を訳していると解りました。

競馬

 さて推理小説の中には競馬を題材にした作品もあります。例えば、古典的名作でいえば「名馬シルヴァー・ブレイズ」*2、「ショスコム荘」*3、エラリー・クイーンの「大穴」*4などが挙げられるでしょう。またボードゲームでも競馬の八百長をモデルにしたものもあるほど*5。ちなみにディック・フランシスの一連の作品は読んでいないので、ここでは挙げません。
 競馬がどうして推理小説の題材になり得るかといえば、ギャンブルであり、多額の金線が絡むからでしょう。つまるところ、フィクションにおいて、マフィアが絡んでくる余地が十分にあるのです。『幻のダービー馬』もその一つ。
 しかもこのマフィアを利用しながら、コロンボは犯人を追い詰めていくのです。なお、推理小説といえば論理的に追い詰めると思われがちです。しかし、コロンボでは心理的に追い詰めていっており、『幻のダービー馬』では特にそれが際立っています。何せマフィアへの恐怖心を利用して追い詰めていくのですから。

人と馬との逆転

 さて、人間と馬が逆転していると指摘できるでしょう。

出自をめぐって

 フィドルの父馬は「カルフォルニア産の無名の馬」といえども出自がはっきりしています。これはシオドアとグレアムに於いても言えること。放蕩三昧の弟でも出自がはっきりしていますが、一方のグレアムの出自は解りません。シオドアはマクヴェイ家の者ですが、グレアムは孤児院から拾われてきたのです。
 グレアムは乏しい記録をたどって、彼がもらわれてきた孤児院の名称をつきとめた。が、訪ねていった孤児院はすでに閉鎖され、なんの手がかりも得られなかった。
 また、「自分が醜い太ったアヒルの子のような気がした」とあるように、「みにくいアヒルの子」と重ねていますが、注目すべき点だと言えましょう。というのも、アンデルセンの「みにくいアヒルの子」もまた、その出自をめぐる童話なのです。後半、再び、グレアムは自分の出自について悩み始めます。
 グレアムもマクヴェイも赤の他人もらった名前じゃないか。ほんとうの私は誰なんだ?
 もちろん名前と人格は全く関係ないと僕は思いますが、それでも名前で呼ばれる以上は関係があると考える人もいるでしょう。
 加えて、フィドルがグレアムの所有物だということを考慮に入れれば、アイデンティティの明確さが逆転していると言えるでしょう。
 そればかりではありません。グレアムはブルーノの拳銃を手に入れるために、ネズミを使って騒ぎを起こすのですが、そのネズミは山間部にしか生息していないのです。言い換えればネズミの出自さえはっきりしていると言えます。

自由をめぐって

 グレアムはコロンボに逮捕されます。この後、殺人罪で起訴され、服役するのは容易に想像がつくでしょう。またブルーノのレストランに閉じこめられた様子が描かれています。グレアムの人生自身、シオドアに制約されていたと、コロンボに話しているのです。
 一方で、その馬フィドルが颯爽と駆け抜けていく場面で物語は終わります。
 これに加え、フィドルたちがいなければ文字通り牧場経営は成り立ちません、ここでも人間の馬の逆転が読み解けるでしょう。

*1 小鷹信光『訳者あとがき』(ウイリアム・リンク、リチャード・レビンソン『幻のダービー馬』(二見書房)
*2 コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの回想』(光文社)
*3 コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの事件簿』(光文社)
*4 エラリー・クイーン『エラリー・クイーンの新冒険』(東京創元社)
*5 翔エンタープライズ『LONG SHOT 競馬マフィア


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ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『5時30分の目撃者』(二見書房)

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刑事コロンボ 5時30分の目撃者 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

あらすじ

 精神分析医のマーク・コリアは患者と恋愛関係にあった。しかも相手は病院の院長夫人、ナディアである。不倫関係が発覚し、マークは病院を追い出されるか別れるかの二者択一を迫られる。衝動的に火かき棒で殴打し、ナディアと口裏を合わせた。アリバイ工作のため病院へ戻るが、犯行時刻から30分後の5時30分に盲導犬を連れた男性が、マークの車を「目撃」していた。

はじめに

 中高生から大学前半にかけて推理小説を中心に読んでいました。刑事コロンボの小説もその流れで購入したのですが、ずっと積ん読中でした。図書館で借りてきた本も読み終わったので、積ん読本の消化に乗り出そうと思った次第です。
 コロンボは原題から掛け離れてた邦題で訳されているのですが、邦題のほうが素敵な作品もあります。この「5時30分の目撃者」もその一つ。5時30分の目撃者はモーリスではなく、マーク医師本人の意だったのです。
  原題は「A Deadly Stage of Mind」。このステージはおそらく「舞台」と「段階」の掛詞です。ナディアはバルコニーから身を投げるのですが、このバルコニーを「舞台」に見立てたのと、不倫の段階。これはナディアだけではなくマークにとっても致命的な段階だったと解釈しました。しかし、英語の掛詞は日本語に訳するのは難しいでしょう。

オカルティズムのような話

 先述のように、愛人のナディアも殺されるのですが、暗示を利用して殺すというもの。

〈語り〉

 具体的にはチャーリーと聞いたら、プールの飛び込み台だと錯覚するもの。父親の気を引くためにプールの飛び込み台から飛び降りた逸話が、冒頭で語られ、しかも同僚のアニタ・ボーデン医師に「催眠術は魔術じゃありません」と述べているとはいえ、いささか強引な印象。
 もちろん、その直後にも、
「人間が正気のときにやらないようなことは、たとえ催眠状態にあってもやりません。人間の自己防衛本能というのは、警部さんが考えているよりずっと強いんです。だからナディアが催眠状態でバルコニーから飛び降りるなんてことはありまえません」
などの台詞が続いており、殺害を否定しています。しかし、コロンボは更に畳み掛けます畳み掛けます。
「もしドナーさんが錯覚していたとしたらどうなります? たとえば、バルコニーの下に水があると思いこんでいたら。プールの水があると思いこんで、泳ぐつもりになっていたらどうなります?」
 もちろん肯定派に対して、否定派が見られるのも説得力を強める一因となっていると言えるでしょう。
 しかし、大きな要因は倒叙ミステリである点にあります。つまり予め読者は犯人、犯行方法すべてを知っています。通常の推理小説なら疑いようのない人物や犯行方法も答えとして〈語り手〉提示される時点で、受け入れざるを得ないのです。特に犯人の一人称で書かれているなら〈語り手〉が嘘をついているなどの可能性もありますが、三人称の〈語り〉なら突き放しており、客観的な〈語り〉であるかのように見えます*1

多重人格

 このような催眠術などの心理学を題材にした背景には、多重人格の症例が挙げられるかもしれません。コロンボは『5時30分の目撃者』でコリア医師の著作、「マーサ・ポロックの六重人格」を読んでいます。もちろん、この書名自体はウィリアム・リンクたちの創作なのですが、この小説1976年前後はアメリカで多重人格を扱った本が相次いぎました。例えば、1957年の『イブの三つの顔』がベストセラー*2。北米で多重人格が知れ渡るようになります。
 もう一つ興味深い点は、コリア医師がコロンボを分裂病的気質だと診断している点です。
 コロンボ警部、この前お会いしたとき、ぼくはあなたが軽度の分裂病にかかっているのではないかと思った。話がどんどん脇道にそれていって、自分でも収拾がつかなくなるさまを見ていてね。たしかにあなたは体質的には分裂病だ。
 分裂病体質などの区分はクレッチマーが用いました。もちろん当時の精神医学がどのような状況だったかを踏まえる必要がありますが、クレッチマーの著作(あるいはその解説書)を読んだ可能性はあると言えるでしょう。

精神分析

 さて、精神分析の知識となるとかなり詳しいことが解ります。もっとも文学と精神分析は、フロイトが文学作品から作者の心理を解釈しているように、あるいはアンドレ・ブルトンがフロイトの影響を受けてシュルレアリスムを旗揚げしたように、初期から文学と密接な関係を保ってきた点とも関わってくるでしょう。

ナディアの症例分析

 精神分析の重要概念の一つに父親の存在があります。これは、実父だけではなく、抽象化して禁止・倫理観を与える存在です。「父親がナディアのコンプレックスであることをマークは知っていた。成熟した女性でありながら、ナディアの精神はまだ父親から自立していない」とありますが、ここでは、エレクトラコンプレックスだと解釈するのが妥当でしょう。そもそもコンプレックスと言うと、日本では劣等コンプレックスを指しますが、精神分析の用語では心の中で複合的な感情が渦巻くことを指します。例えばエレクトラコンプレックスは娘は父親を独占しようとする余り、母親を敵視します。しかし、母親も同時に愛しているので、愛憎が同時に渦巻いている心理状態を指します*3。ナディアのエレクトラコンプレックスは下記の通り描写されています。
 すでに死んでしまった父親のイメージは求めても得られなかった父性愛という幼児体験によって不自然に誇張され、父親の年齢に等しい男と結婚をすることによって、よりいっそう激しい飢餓感を生み出していた。
 精神分析の用語に従えば、転移が起きています。転移とは、過去に実現できなかった欲望を、他者に向け、叶えたように思うことです。多くの場合、精神分析医に向けられるので、典型的な転移が起きていると言えるでしょう。転移も「途中で神格化の転移が起こった」、「父親像の入れ替わり」などと『5分30秒の目撃者』で説明されています。
 また夫、ドナー医師によると、ナディアの浮気はマークが最初ではないと言います。
 妻は話さなかったろうが、妻の浮気はきみが最初じゃない。二番目ですらないのだ。五番目ですらないと言っておこう。(中略)私が知っている男の数よりもずっと多いことは確かだ。もっとも妻にもわからないかもしれない。
 このように浮気を繰り返しているのは、飢餓感だけが原因ではないと推察できます。精神分析で、父親は禁止行為を与え、倫理観を形作るのに大きく役立っています*4。したがって、倫理観の麻痺は禁止行為が与えられなかったことと関係してくると言えるでしょう。
 さらには、マーガレットという女性が来たことととナディアと父親の関係が一変したと語られています。マーガレットと彼女とがどういう関係なのか書いていませんが、推察はできるでしょう。後妻だと解釈しました。
 ナディアの後に彼女の父親と知り合ったことは確実なので、母親ではありません。妹かと思っていましたが「マーガレットが来た」と言っています。原文は確認していないので、訳文を信用する他ありませんが、妹なら「マーガレットが産まれた」となるはずです。また、幼児期に父親をなくしている以上、マーガレットはさらに幼いはず。「〔マーガレットは〕水泳もできなかった」とわざわざ述べるのは不自然でしょう。
 後妻であるならナディアの葛藤はますます複雑なものになったことは想像に難くありません。作品中からも解るように、ナディアはマーガレットを毛嫌いしています。しかし、その一方で新しい母親と見なさなければいけません。そのように考えていくと「いちばん高いところから何度も飛びこんだ」のも単に「注意をひくため」だけではなく自罰感情の現れだと解釈できるでしょう。
 そして、自罰感情は度重なる不貞行為で姿を表わします。夫に発覚したら家庭は崩壊し、父親と同一視していた相手とも別れなければいけません。このように幼児期の苦痛な体験を反復体験するのはよくあることだとフロイト自身も述べています*5。

コロンボと父

 さて、精神分析において、父は実父だけを指していません。禁止を与えるもの全てを父と呼んでいるのです。例えば思春期になると父親だけでなく、学校の先生にも反発しますが、これは父親像が学校の先生にも転移した結果でしょう。
 そしてもちろん、国家、警察官、上司なども父親像と重なります。つまりコロンボ自身も犯人たちにとって父親像なのです。そのように考えていくと、「かつてヴェトナム戦争で鬼軍曹にこきつかわれた経験を持つクレーマーは、コロンボを見ているうちに不愉快になってきた」のも単なる連想だけではなく、転移が起きてると考えていいでしょう。

*1 ここで断定を避けたのは二つの理由に基づいている。(1)三人称小説でも信頼できない語り手を使った作例がある(2)そもそも三人称、一人称問わず〈語り手〉が言葉を選んでいる以上は厳密な客観性は保てない。
*2 Wikipedia「解離性同一性障害
*3 Wikipedia「エレクトラコンプレックス
*4 Wikipedia「エディプスコンプレックス
*5 ジークムント・フロイト「快楽原則の彼岸」(ジークムント・フロイト『自我論集』筑摩書房)


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ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『大当たりの死』(二見書房)

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刑事コロンボ 大当たりの死 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

あらすじ

 フレディーは三千万ドルの宝くじが当たったが、折しも離婚調停中。このままだと慰謝料として半額を請求されかねない。宝石店の叔父、ラマールに泣きつくと、自分が買ったことにして、後日当選金を渡すと提案された。
 しかし、これは当選金に目がくらんで、フレディーを殺害しようとする計画の一部だった。持病の癲癇に目を付け、入浴中に発作が起こったように偽装する……。

はじめに

  図書館から借りた本も全て読み終え、読む本もなくなったので、積ん読本を消化。もともと、アガサ・クリスティ、エラリイ・クイーンなど海外の推理小説が好きで、刑事コロンボも当然、買っていました。刑事コロンボは大量に買ったまま放置してあるんです。
 しかし図書館に通い詰めると、なかなか積ん読本が減っていきません。純文学の後なので軽めのミステリを読もうと思って刑事コロンボに手を出しました。たとえて言うならステーキばかりを食べていると、お茶漬けも食べたくなるのと似ているような気がします。
 奇しくも前回『死者のギャンブル』を読みましたが、同じ賭博を題材にした作品でした*1。

不条理

 カミュやカフカなどはよく不条理をテーマにしています。

『異邦人』

 『大当たりの死』はカミュ原作の映画『異邦人』から台詞が引用されており、影響関係が窺えます。
 さんさんと降り注ぐ西海岸の陽光に目を細めて、ラマールはずっと昔に観た『異邦人』という映画の主人公の気持ちが理解できるような気がした。
(どうして甥を殺そうとしてるかって? それは太陽が黄色いからさ)
 ここで不条理とは何かを取り急ぎ定義しておくなら、例えば「水に濡れないつもりで川に飛び込む」というような「理屈にならない行動」であり、「この世界が理屈では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙した状態」です*2。上述の引用なら「甥の殺害」と「太陽が黄色い」ことの間には何の因果関係もありません。これは、「水に濡れないつもりで川に飛び込む」などと同じたぐいの論理です。しかし、これはカミュの言及されているように『異邦人』からの引用で、「太陽が眩しかったから人を殺した」とムルソーは法廷で供述します*3。

ラマール

 カミュの異邦人に比べると、ラマールの動機は短絡的にせよ、三千万ドルの当選金を横取りしたいという、一見、我々に了解可能な動機です。この動機を不条理と呼ぶには躊躇いがあるでしょう。
 しかし、それでもなお『大当たりの死』のラマールは不条理な行動だと言えるのです。綿密な殺害計画を立てたにもかかわらず、衝動的にシャンパンの壜で殴打しているのです。
 ビールで弛緩した甥の顔が、ラマールの目を貫き脳髄に突き刺さった。猛烈な怒りが湧いてくる。こんな人生をなめきった青二才がただ呑んで食って遊ぶためだけに三千万ドルを使い果たそうとしているのか!? それはラマールの年頃の中小企業主なら誰でも抱く感情であった(中略)
 頭の中が白熱した。何も考えぬままラマールは衝動に従い、手にしたシャンパンの壜を高く振り上げていた。
 まさに、この行動は殺人の目的を考えると「理屈にならない」行動、つまり不条理な行動です。しかもこのまま何もしなくても、抗てんかん剤の過剰摂取で死ぬ手筈だったのですから、必要以上のリスクを犯していることになるでしょう。どんなに理由を言い募っても不条理には変わりません。
 それにもかかわらず、少なくとも僕にはラマールの行動が了解可能です。一時の衝動で行動した結果が取り返しのつかないことになる経験は誰にもあるのではないでしょうか。例えば慎重に買い物リストを作っても衝動買いをするなどにも繋がってきます。
 ラマールの行動が了解可能だという事実は、僕たちが不条理な存在だからかもしれません。僕たちが不条理だからこそ不条理な登場人物、ラマールの心理が了解できるのはないでしょうか。

宝くじ

 「理屈にならない行動」を不条理だと言うのなら、宝くじなどのギャンブルも不条理だと言えるでしょう。フレディーはラッキーナンバーをもとに宝くじの数字を選びますが、本来なら因果関係はありませんし、フレディーもそのことは解っているはずです。少なくとも本気で信じてはいません。いえ、それ以前にギャンブルは大概、期待値は購入金額を下回りますので、買わないほうが絶対得です。
 それにも関わらず、「ラッキーナンバーだから宝くじに使う」行動は、購買行動も含め、宝くじを買わなくとも了解可能です。

ポオ

 さて、カミュの『異邦人』と並んで、ポオの影響が見てとれます。一つは「モルグ街の殺人」*4であり、もう一つは「裏切る心臓」*5です。猿の仲間が重要な鍵を握るという点でも一致しています。しかも『モルグ街の殺人』では、人間の毛だと思われていたものがオランウータンの毛だったのに対し、『大当たりの死』では人間の指紋だと思われていたものがチンパンジーの指紋だったのです。
 『裏切る心臓』もまたこの小説に影響を受けていると言えるでしょう。「裏切る心臓」は耳鳴りが罪を告発する声に聞こえてくるという話。「相変わらず音は大きくなるばかり」、「音は消されるどころか、刻一刻と(中略)大きくなって」「またしてもあの音は──あっ、いよいよ大きく──いよいよ大きく」*4などと繰り返されています。
 この「裏切る心臓」では短編小説だからか、最後にまとめて描かれているのですが、『大当たりの死』は下記の通り描かれています。
脈打つ音が意味のある音に聞こえてくる。
(そら来た、そら来た、そら来た……)
 この「そら来た、そら来た、そら来た」という幻聴または心理描写も随所で印象的に繰り返されています。この繰り返しは「裏切る心臓」と重なり合うと言えるでしょう。

*1 ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『死者のギャンブル』(二見書房)
*2 清水徹「訳者付記」(アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』新潮社)
*3 アルベール・カミュ『異邦人』(新潮社)
*4 ポオ「モルグ街の殺人」(ポオ『黒猫・モルグ街の殺人 他五編』岩波書店)
*5 ポオ「裏切る心臓」(ポオ『黒猫・モルグ街の殺人 他五編』岩波書店)



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ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『死者のギャンブル』(二見書房)

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新・刑事コロンボ 死者のギャンブル (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

あらすじ

 ギャンブルで借金まみれのハロルドに持ち掛けられたのは、叔父の爆殺計画だった。彼の叔父、フレッドは大の資産家で、死ねば遺産が転がり込むはずである。仕方なく、フレッドのロールスロイスに爆弾を仕掛けれが、当の本人は車に惹かれてしまう。犯罪計画が知られると厄介なことになりかねない。しかし、交通課の刑事と一緒に捜査していたコロンボは奇妙な跡に気づき……。

倒叙ミステリ

 コロンボと言えば最初に犯行の場面を描いて、それから探偵役が事件を解き明かすスタイルです。これを倒叙といい、日本では古畑任三郎などが有名ですね。したがって通常の倒叙ミステリでは犯人の名前を書いたところで、ネタバレにはなりまません。
 『死者のギャンブル』でもハロルドがフレッドの殺害計画を企てる点では倒叙だと言えるでしょう。しかし、『死者のギャンブル』が意欲的なのは二重にも三重にも反行計画がなされているところ。これにより、通常の倒叙にはないカタルシスが味わえるのです。倒叙の形式を逆手にとっていると言えるでしょう。

コロンボ

 この刑事コロンボですが、ピーター・フォークが演技が印象的ですね。小説版でも「よれよれのレインコートを着た、なんとも風災の上がらない初老の小男」で「ホームレスが居心地のいいねぐらを探しているようだった」と描写されています。そして「もじゃもじゃの頭」。また、事件現場で奥さんから頼まれたクロスワードを解き、挙げ句の果てに部下へ押し付けます。
 既視感があると思ったら横溝正史の金田一耕助でした。彼もまた、もじゃもじゃ頭。もちろんコロンボのモデルは彼ではなく、『罪と罰』のポルフィーリイ判事です*1。もしかして金田一耕助のモデルも同じかと調べてみましたが、こちらは菊田一夫がモデルだとのこと*2。

ギャンブル

 この小説はその名の通りギャンブルを扱っています。ギャンブルを扱った小説は『死者のギャンブル』でフレッドが言っているように、ドストエフスキー『賭博者』が挙げられるでしょう*3。

ギャンブル依存症

 しかし、『死者のギャンブル』では、ギャンブルを否定的に捉えています。特に冒頭部は依存症の心理・過程を表しています*4。
 第一段階は生活の楽しみの中心がギャンブルになっている(中略)。次第に自尊心とうぬぼれが強まり、リスクなど省みることなくギャンブルにのめり込んでいく。
 第二段階は負けがこんでもますます賭博に溺れ、(中略)元手を得るためには平気で大ボラを吹くこともいとわない。そのため厄介なトラブルを抱え込むことになり、それから逃避するためによりいっそう派手なギャンブルにはまりこんでいく。
 そして第三段階……。(中略)情緒不安定におちいり、ときに自殺や強盗など過激な行動に至ることもある。
 また少なくとも『死者のギャンブル』の店員はカジノに対して否定的な印象があると自覚しているようです。
 案内係のティムは、コロンボへ「刑事さん、ギャンブルって言わないでください。暗い印象がありますから、ゲームと呼んでください」と言います。またスロットのことを「片腕の追い剥ぎ」と呼ぶそうなのですが、その由来をコロンボが尋ねると、こう返します。
「だってレバーが一本で、どんどんお金を吸い取っていくから。もっとも、運よくつかまえりゃ、どっと吐き出してくれますけど」
 そもそもカジノの元手を得ようと、叔父を殺害しようとする時点で、カジノへの姿勢が窺えるでしょう。そしてこれはドラマの小説版だということを考えると、決断が必要だったのではないでしょうか。
 小説版は1996年に発表されていますが、アメリカでギャンブル依存症の調査はすでに行なわれていました*5。
1975年にミシガン大学によってギャンブル依存症(の疑いのある人:以下すべて同様、確定診断ではない)に関する実態調査が初めて調査が行われ、成人の0.77%がギャンブル依存症、2.33%が予備軍であると報告されている。1980年代に5つの州で行われた調査では、成人人口の0.1%から2.3%がギャンブル依存者であるという結果が出ている。
 ウィリアム・リンクとリチャード・レビンソンはこれらの知見をもとに組み立てていったのでしょう。

娯楽としてのギャンブル

 一方で、ウィリアム・リンクとリチャード・レビンソンは娯楽としてのギャンブルは肯定的に捉えていると解釈できます。例えば、コロンボは「ポーカーのほうは以前カミさんとやってこっぴどい目にあったから……一晩で一ヶ月分の小使いを巻きあげられちまったからねえ」と語っています。
 一見、発言の内容からすると哀愁が漂い、否定的な印象を受けるでしょう。しかし、コロンボの発言だと考えれば肯定的だと解釈できるのです。理由は
(1)ほとんどの推理小説で探偵役は正義の代弁者であり、コロンボもその例外ではない
(2)「カミさん」とのコミュニケーションツールとして活用している
 また、この会話の後、コロンボはスロットマシンで大勝するのですが、賞金を取りにきません。つまりコロンボは金銭目的でスロットマシンを行なっていなかったのです。もちろん物語の筋で言えばロールスロイスを弁償しなければなりません。したがって、大金を手に入れなくてはいけないのですが、コロンボは警察官です。ロサンゼルス市が弁償するという結末もあり得たでしょう。
 勝つつもりもなく、受けてるつもりもなかったスロットマシンの賞金で弁償するという結末にはウィリアム・リンクとリチャード・レビンソンのギャンブルへの考え方が反映されていると解釈できるのです。

*1 Wikipedia「刑事コロンボ
*2 Wikipedia「金田一耕助
*3 ドストエフスキー『賭博者』(新潮社)
*4 DSM-5の診断基準には「苦痛の気分(例:無気力、罪悪感、不安、抑うつ)のときに、賭博をすることが多い」「賭博へののめり込みを隠すために、嘘をつく」「賭博によって引き起こされた絶望的な経済状況を免れるために、他人に金を出してくれるよう頼む」などの項目が見られる(Wikipedia「ギャンブル依存症」)
*5 Wikipedia「ギャンブル依存症

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ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『ロンドンの傘』(二見書房)

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刑事コロンボ―ロンドンの傘 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

あらすじ

 売れない役者のニック。彼は妻のリリアンを使って、劇場主のロジャー・ハヴィシャム卿に枕営業のようなことをしていた。もちろん、リリアンも快諾していた。『マクベス』開演直前にハビシャム卿の怒りが爆発。ハビシャム卿は二人を演劇界からの追放しようとする。ニックはかっとなって絞め殺してしまった。
 折しもロンドンにはコロンボ警部がスコットランドヤードを視察しようとしていた。原題である「DAGGER OF THE MIND」*1からも分かるように、マクベス尽くしの一作。

マクベスのオマージュ

 この小説の特徴は言うまでもなく、マクベスを下敷きにしています。全編に渡るマクベスの引用、前半には老婆が占いで大成功を予言。これもシェイクスピアのマクベスと同じ構成です。素材を上手く料理すると、こんなにも面白くなるのかと思いました。
 刑事コロンボは犯人との心理戦に焦点を当てているのですが、今回はニックとリリアンに焦点が当てられ、緊迫感が。舞台をどうしてもロンドンにせざるをなく、その結果、警察の描写が少なくなったせいかもしれません。タナーからの脅迫もあり、推理小説というよりは全体的にサスペンスを読んでいるようでした。
 また証拠の傘を回収しようと、蝋人形に忍び込むところも緊迫感がありました。
「これならナイフの刃が入りそうだ。こうしてひっぱっててくれ……」
 ニックは小型ナイフをとりだすと、隙間に差しこみ、落し金を刃先でこじ開けようとした。が、なかなか力が入らず、すぐに刃先がツルッと滑ってしまう。二度、三度と失敗を繰り返し、焦れば焦るほど刃先が滑る。
「落ち着いて、ニック。もっと奥へ差しこめないの? これじゃ何回やっても同じだわ」
 鍵を開けて中に入る描写ですが、こんなにも濃密に描写されています。基本的に読者が読む時間と作中人物の心理的な時間とは同じです。例えば単に「中に入った」と書くよりも行動描写を重ねたほうがより緊迫感が増します。

人物造形

 このほかにもニックが臆病な性格だということも影響してるのかもしれません。ニックの性格はもちろんシェイクスピアのマクベスによるところが大きいのですが、原作のマクベスも臆病者です。例えば、ダンカン王を殺害後、「眠りを殺し」たと表現されるように、眠れなくなります。
"Sleep no more!
Macbeth does murther sleep"(有沢訳:これ以上眠れない! マクベスは眠りを殺したのだ。)
  マクベス夫人もまた原作では野心家でありながら、臆病者だということが窺い知れます。マクベスは不眠症にかかりますが、マクベス夫人は夢遊病にかかってしまります。しかも自分の手に血がついているような錯覚に陥り、何度も手を洗うのです。例えば
「まだ血の臭いがする、アラビアの香料をみんな振りかけても、この小さな手に甘い香りを添えることは出来はしない。ああ! ああ! ああ!」
という台詞が出てきます*3
 また、「いくら大海の水をかけようとも、この血は洗い流せはしまい」という台詞が『ロンドンの傘』では引用されていますが、この時の台詞です。
 もし何の罪も感じないような冷酷な女だったら、マクベス夫人はこんな行動に出るでしょうか。しかし自分の野望を達成するために、マクベスを叱咤するのです。
 二人の性格はちょうどニックとリリアンにそのまま適応できるのは言うまでもありません。リリアンはニックを唆し、大女優をほしいままにするのです。

証拠

 この作品を推理小説として読むと、不満な点があります。コロンボはけっこう犯人を罠にはめることがありますが*2、今回は悪質。しかもリリアンは白を切れます。「どうしてこの真珠があの時の真珠だと言い切れるの?」といえば良いのです。
 もともと卑怯に思えて犯人を罠にはめる話は好きではないんですよ。その上、言い逃れができないのか、本当に犯人だと証明できているのかと考えてしまうので余計にあらが目立ったのかもしれません。この辺りは本当に好みですが。

*1 「A dagger of the mind, a false creation,」(有沢訳〔ダンカン王を暗殺した〕短剣を気にすると、誤った〔考え〕を作り出す)
*2 『指輪の爪あと』ではジャガイモをマフラーに詰めて、犯人に修理へ出すよう仕向けている(ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『指輪の爪あと』二見書房)。
*3 シェークスピア『マクベス』(新潮社)

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ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『探偵の条件』(二見書房)

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新・刑事コロンボ 探偵の条件 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

あらすじ

 クライトン弁護士は、内縁の妻マーシーを別荘で絞殺した。そして、その罪を愛人のネッドに着せる。しかし私立探偵、サム・マーロウはその様子を盗撮していた。彼はクライトンに雇われていたが、高圧的なクライトンに耐えかねて密かに弱みを握ろうとしていたのである。
 コロンボはこの事件に挑むが、数々の壁に突き当たっていく。確たる物証がないのである。その上、犯行時刻の監視カメラには交通違反で……。監視カメラにはクライトンの姿が収められていた。

はじめに

 既視感が否めなかったのですが、実はテレビで見てました。だからある意味、二度目です。

刑事コロンボといえば

 故ピーター・フォークが主演していましたね。「うちのかみさんがね」で有名ですが、コロンボが相手を油断させるためにわざと架空の「かみさん」をでっち上げてると思われるかもしれません。
 しかし、「かみさんよ、安らかに」のラストでは*1、風邪を引いた「かみさん」に電話を掛けています。また『ロンドンの傘』*2では、空港で乗客に「すいません、奥さん。その旅行鞄を見せてもらえませんか? ひょっとしてあたしの……いや、うちのカミさんのじゃないかと……」と尋ね回っています。
 したがって、コロンボの奥さんは話の上で実在します。

倒叙ミステリ

 さて、刑事コロンボは最初から犯人が分かっていますよね。日本なら、古畑任三郎が有名ですが、こういうものを倒叙ミステリと言います。倒叙ミステリを書こうと思って、参考文献として読みました。

科学技術

 さて、今回は自動でシャッターを切るカメラが登場します。いわゆるオービスなのですが、物語はオービスが導入されて間もない時期という設定です。
「こんなのは無茶だ。いきなりカメラでパチリなんて」
「カメラが正しく動作していたという証拠はあるのか?(中略)」
 加えてこの物語では隠し撮りが重要な手がかりになっています。例えば、サム・マーロウはクライトンの別荘を盗聴します。
 ここで僕は監視社会などを論じるつもりはなく、公平性を問題にしています。オービスも津々浦々に行き渡っていますが、これは法律、特に刑事罰にも似てます。しかも法定速度を守らないと罰金を支払うというルールも(少なくとも)州の中はどこにいても適用されます。殺人が行われたら、どこでも同じように裁かれますよね*3。
 またクライトンは薬をシャンパンに入れるのですが、これもまた人間なら公平に効きます。しかも、「どこででも簡単に入手できる睡眠薬」を使っています。これは足が付きやすいという物語の都合もありますが、公平さいう点において、オービスや法律と類似性を持っていると解釈できます。
 クライトンは警察に圧力を掛けるのですが、結局はコロンボに捕まります。公平性の極地がオービスと影だと思うのです。この二つは物理現象に従う限り、人を選びません。
 つまり、この物語は公平性を示すものが散見されるのです。そういった文脈で見ると日本人の庭師もただのオリエンタリズムではなく、別の視点で捉えることができます。つまり、日本人も『探偵の条件』において、公平に証言しているのです。
 
*1 新・刑事コロンボ「第53話 かみさんよ安らかに」参照。
*2 ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『刑事コロンボ』(二見書房)



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ジョン・D・マクドナルド『夜の終り』(東京創元社)

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夜の終り (創元推理文庫 151-1)

あらすじ

 物語は最初、スタッセンはじめ4人が死刑を宣告されるところから始まります。群狼事件と報じられたこの事件ですが、動機が全く持って〈異常〉で道徳倫理、行為の必然性、その他もろもろが見えてこない。
 スタッセンの手記を通じて明かされますが、狂ってるとしか思えないのです。しかし、狂った中にも理性はあるもので、スタッセンは独自の行動様式を持っています。その行動様式をスタッセンの手記では語っています。

分類上の難しさと面白さ

 一応、倒叙ミステリに分類いたしましたが、倒叙というのとはまた違うような。というのも倒叙というのは刑事コロンボや古畑任三郎のように犯人が最初に解っていて、探偵役との心理戦を描くものがほとんどです。
 また逮捕されるまでが犯人と探偵役との勝負なのですが、『夜の終り』では、すでに逮捕されてしまっています。強いて言うなら犯罪心理小説……なんですかね?
 さらに、紹介文にもあるように「ノン・フィクション・スタイルの迫力」と書かれています。僕はそのような感じを受けなかったのですが、犯罪者の手記、そして弁護士の手記など交えながら語るスタイルはノンフィクションの方法の一つだと思います*1。
 理屈として一つ上げられるのは、三人称視点はいつもフィクションなんです。というのも僕たちはいつも一人称視点でしかものを見れませんよね。しかし、この作品は前述の通り、手記で構成されていて、その点では一人称です。
 しかし全体を見渡してみると、事実上は複数の心の中を描いている点で三人称といっても差し支えないと思います。この作品の形式から、一人称視点と三人称視点を織り交ぜることにより、フィクションにもかかわらずあたかもノン・フィクションとして捕らえさせることができると解釈できます。
 そういった意味で対照的なのが、トルーマン・カポーティ『冷血』*2でしょうね。逆に『冷血』が小説が三人称にも関わらず単なるフィクションとして受け取られないのは、事件の舞台となったホルカム村の詳細な叙述などもそうですが、やはり〈現実〉の、つまりテキストの外部との関係性があります。
 『冷血』の場合だと、新聞などでみんな知っていたわけですし、今日でも裏表紙などに、「関係者にインタビューをして書かれた」と記されています。これによって、『冷血』はノンフィクション・ノベルだと言えます。しかし、もし、このことが嘘だったとしたら? もし実際には全く取材をして書かれたものではなかったとしたら?
 その意味でノンフィクションとフィクションは曖昧ですよ。
 ちなみに『冷血』の後、ノンフィクションノベルブームが起きました*3。しかし『夜の終り』が『冷血』を意識して書かれたものかというとそうではありません。なぜなら『冷血』の発表時期が1965年に対し、『夜の終り』が1960年だからです。

狂った中の理性

 スタッセンは殺人を犯した理由を弁護士の会話の中でこう語っています。
 「もし相手が価値のある人物なら、大きな損失だろうということですよ。でも相手が(中略)何ともならない人物だとしたらどうして罪悪感(中略)を感じます?」
 倫理観が全く欠如しているわけではなく、むしろスタッセンの倫理観が社会から見て逸脱しているんですね。つまり、スタッセンは「すすんで道をきりひらいてゆく人間、病みただれたこの社会に抵抗する人間、われわれがはまり込んでいるこの大きな罠から、進んで人類を救い出そうとする人間」などを価値ある人間として認めています。
 この問題は実に難しい。スタッセンのように殺人という形でなくても、我々は例えば会社に多く貢献してくれている人物は給料を多くしていますし、心の中では意識的にせよ無意識的にせよ、スタッセンのような「価値ある人物」を尊敬します。
 つまりスタッセンは僕たちをデフォルメした姿なのです。後にスタッセンが自己分析するように、愛情に飢えていたのかもしれませんが、それは全くの部外者がやってはいけない。またそのことをスタッセンは二度に渡り、拒絶しています。
 一度目は精神分析の観点から。
 新聞記事の中でもうひとつ腹がたったのは(中略)なまっかじりの精神分析を試みようとしている点だ。〈先天性精神障害〉のレッテルを貼るのがお気に入りの結論らしい。どうやらこいつは、世間を安心させたいらしい。性格異常──規範からの逸脱者──というレッテルを俺に貼り付ければ、明らかに、罪は文明社会にあり、ということにはならないからである。こ
 このあと、「なまっかじり」の精神分析が好きそうな、幼少期のエピソード、父親との関係を書いて精神分析を挑発しています。挑発と書いた理由は、精神分析をしたくても、精神分析をしたら、上の言説に回収されてしまうからです。
 精神分析を勉強した身の弁護に立てば、マスコミに登場する精神分析などは大概、「なんちゃって」です。精神分析は対話の繰り返しなので、本人に何回も会わないと、そして信頼関係を作らないと精神分析はできません*4。彼らが言えることはあくまでもよく似た犯罪を犯した他人のことであり、その人のことではありません。
 二つ目は、
 火星人社会学者がここを観察し、誤った、だがもっともらしい結論に到達することを想像してみるのも一興だ。(中略)そしてこのおれも〔いけにえと同じく〕なにかでたらめで不合理な方法で(中略)この死刑という疑わしい名誉に浴するために選び出されたものと思わざるをえない。
 二つの箇所は少し間が開いていますが、こうして並べてみると〈先天性精神障害〉というレッテルは社会を安心させるためのいけにえだと解釈することができます。
 そう考えるとオウウェン弁護士の
 われわれは、真の目的は快楽の追求にあリとし、授業は面白くすべきだ、と主張した。そして集団訓練を説き、努力より保護を、挑戦よりは安全を、と説いた。(中略)自分たちがは自分たっぷりにそっくり返って、彼が急速におとなになることを期待したのだ。一人前になったからだには、子供じみた(中略)感情しか宿っておらぬことに気づいて、なぜわれわれは慄然するのであろうか?
 という内的独白も意味を帯びてくるようになると思うのです。

*1 むしろ僕は19世紀初頭の文学作品を思い出す。例えばブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』は手紙、日記などを並べた小説である。
*2 トルーマン・カポーティ『冷血』(新潮社)
*3 wikipedia「冷血
*4 対話のない精神分析が至難を極めることはフロイト自身『シュレーバー症例論』の中で述べている。

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ジャン=ジャック・フィシュテル『私家版』(東京創元社)

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私家版 (創元推理文庫)

あらすじ

 イギリス人の大人気作家であるエドワード・ラムはゴングール賞を受賞するなど華々しい経歴の持ち主だった。しかし、そのほとんどは出版社社長兼売れない作家の「わたし」が手を加えてきた。しかも学生時代から続けてきた同人誌「オリエント文学」時代からずっと。
 エドワードは「オリエント文学」へは女性目的で入会していた。そんな「オリエント文学」時代、「わたし」はヤスミナという少数民族の娘にひかれるようになる。しかし彼女は殺されて、第二次大戦下の混乱や戸籍にも載っていない少数民族ということもあり事件は闇に葬られる。
 きっと儀式の生贄にされてきたんだ。仕方のないこと……「わたし」も長い間そう割り切ってきた。しかしエドワードの新作原稿を見たとき、「わたし」は確信する。彼がヤスミナを殺したんだと。
 そしてエドワードを破滅させようとするが……

フランスらしいミステリー

 えー、フランス文学はリア充向けです。というのも必ず色恋沙汰が絡むのですから。例えば、ボアロー&ナルスジャックの『悪魔のような女』、カトリーヌ・アルレーの『わらの女』などなど。
 そもそも、フランス随一の怪盗であるルパンが『カリオストロ伯爵夫人』において、クラリスと結婚しても二度、三度と結婚する話が小説になったりするなど、その女と男の関心の高さが窺えます*2。
 さて『私家版』でも過去の恋人の復讐に燃える「わたし」、女たらしのエドワード・ラムと女性問題には事欠きません。

ジャック・デリダ(1)パルマコン

 恥ずかしながら1960年以降のミステリはほとんど読んでいないのですが、僕は間違いなくこの作品はデリダの影響を受けてると思います。
 こう書くと「なんでもかんでもポストモダンに結むすびつけている」と、からかわれそうですが、かなりデリダの影響を受けてる、と思ってます。まず時代からハッキリさせておきます。ジャン=ジャック・フィシュテルが『私家版』を書いたのが1993年、ジャック・デリダが『声と現象』において脱構築を試みているのが1967年です。確認のために読み直してみたら、こんな記述を見つけました。
超越的ロゴスの問題、つまり現象学は伝統的に言語の中でその還元の操作の結果を産み出し、提示するものであるが、その伝承された言語の問題を提起したことは一度もなかった。前置きをつけられ、引用符にはさまれ、修正され、刷新されたにもかかわらず(後略)。
 この後、引用については『責任有限会社』(1988年)『精神について』(1987年)などでサールやハイデガー相手に……少しのイヤミを込めて、論じられるてーまでありますが、伊達や酔狂でジャック・デリダを引用しているのではありません。むしろこの『私家版』を論ずるに当たってなくてはならない要素の一つだと思っています。

毒と薬の両義性

 デリダは「昔、古代ギリシャの人々は毒も薬も同じパルマコンという単語で現わしていたんだよ」と語ります。それだけならトリビア程度ですが、デリダはここからさらに「つまり昔の人はある草を与えた時点では、毒か薬か分からなかった」と結論づけます。これはキバヤシも驚きの発想に見えますが、もし区別がついていたなら違う言葉で表わされていたはずだというのがその理屈です。
 この発想は、ジャン=ジャック・フィシュテル『私家版』においてもくり返し見られるテーマです。例えば細かいところだと懲罰と憎悪はインド・ヨーロッパ語族では同じ単語だったと述べています。 
わたしの記憶の奇妙な始動装置が働いて、大学時代のある記憶が蘇ってきた。それは〈カッド〉という語のインド・ヨーロッパ語族における語源についての記憶だった。この語は〈憎悪〉を意味すると同時に〈懲罰〉をも意味している。
 まさにこの発想はデリダが毒/薬の二項対立において言及したのと同じである。
 つまり、憎悪の感情は〈懲罰〉にも単に〈憎悪〉にもなりうるが、その時点では解らない、ということです。実際、この『私家版』という小説を読んでて僕が感じたのは憎悪と懲罰が張りついたような、「わたし」の感情でした。
 また、過去の無名作家、アーウィン・ブラウンの作品をエドワードが盗作したのでは、という疑いを向けるという作戦です。この作戦でエドワードの本棚に隠しておいた私家版が発見されないかもしれないという点を評して「わたし」が時限爆弾のようだと評しているのも興味深いです。
 時期はもちろんのこと、成功するかも解らない、そして下手をすれば自分の身も滅ぼしかねない。
 しかも翻案権を勝手に侵害されたことになるのですから、いつ遺族から裁判の申し立てがあってもおかしくありません。この計画はまさにデリダの言うパルマコンを思わせます。

ジャック・デリダ(2)翻訳と盗作

 さて、デリダは1987年の著作『精神について』で、ハイデガーの〈精神geiste〉という単語がフランスで〈精神esprit〉に変わっていく過程を痛烈に批判しました。
〔ハイデガーの〕講演のプログラムが悪魔的に見えるとすれば、それは、そこに偶然的なものが何もないにもかかわら、そのプログラムが最悪のものを、すなわち同時に二つの悪を資本に組み入れているからだ――ナチズムへの支持と、いぜんとして形而上学的な身振りと。この曖昧さは引用符の狡智、ひとが決して適切な尺度を手にすることのない引用符の狡智(常にそれは多すぎるか少なすぎるかだ)の背後で、Geistによって取り憑かれていることにも由来する。
 このデリダの文章からは翻訳、引用という作業は意味を多かれ少なかれ変えてしまう、ということが読みとれます。
 これは、『私家版』の細部にわたるエピソード、例えば、「オリエント文学」でエドワード・ラムが既存の小説を剽窃したというエピソードとも一致します。
 そしてそれを「わたし」が手直しして出版したというエピソードとかとも一致します。
 さらには翻訳と盗作の間に位置する翻案というキーワードも出てきます。

ユングのシャドウ

 さて「わたし」の人生は影のような人生だったと述べています。まさにユングのシャドウを思い出させます。自分にはなくて、無意識に欲しがっている相手の性格を投影することです。
 「わたし」にはエドワード・ラムの世渡りの上手さ、放蕩さ、そういう部分はありません。なので引かれているのでしょう。しかし、いつまでも彼は影の人生ではなく、多くの影を題材にした小説*4のように「わたし」はエドワード・ラムに反旗を翻します。面白いと思うのは記憶喪失を利用すること。影は無意識に直結した、つまり「覚えていない部分」に直結しているからです。


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ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『歌う死体』(二見書房)3

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刑事コロンボ―歌う死体 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクショク)

あらすじ

 伝説の歌手、ブラーデンが十年の歳月を経て、新曲を出すという。それを取材しにニュースキャスターのシルヴィアが彼のアパートまで訪問した。しかし新曲の楽譜を見せられた彼女は唖然とする。そこには何も書かれていない五線譜。そのことを指摘すると急に怒り出し、シルヴィアに襲いかかったのだ。揉み合っている隙に殺してしまう。
 正当防衛だが、クリーンなイメージを売り物にしているシルヴィアにとって、それは致命的なことだった。投身自殺を擬装することになったのだが……。

勘違いなど

 その1 タイトルを入れるときに間違って『歌う白骨』と入れかけて、『歌う死体』と入れ直しました。『歌う白骨』はオースティン・フリーマンのこれまた倒叙でしたね。しかも元祖、倒叙です。どうやったら間違えるんだろう(笑)
 その2 途中までシルヴィアを音楽評論家だと思ってました。だって講演会がある、とかアニーが言って、しかも有名人だというから、てっきり……、一応、肩書きには目を通したんですけどねぇ。漫然としか見れていなかったんでしょうかね。っていうかこれ致命的じゃんw

物語の進め方

 さすがTVドラマのノベライズだけあって、物語の進め方は上手い! 謎につつまれたブラーデンの人物紹介と、物語進行、そしてシルヴィアの性格を同時にこなしてますからね。「とても四十度の熱をおしての本番とは思えんな」という高熱をおしてでも出る責任感の強さや「うちの秘蔵っ子だからな。ほっといてもスポンサーがふるいついてくる」という社内の地位……。
 そして、物語の主役(被害者)になるアンドリュー・ブラーデンの紹介……。
ヤク中で廃人同然、ですか? そう、そういう噂も流れてる。しかし、二十五歳の若さで引退して以来、実際にブラーデンと会った人間は業界内にも一人としていないのです。
 そして放送が終わりくだんのブラーデンから電話がかかってくる……。話があるからきてくれ、と。
 指定された住所に行ってみると、「新曲がある」という。しかしその楽譜には何も描かれていなかったんです。おまけに新曲は確かにある、といって口ずさみもした。が、それはとても歌とはいえないような無気味なメロディです。ここでひょっとしたら狂ってるんじゃないのかって疑問を持ちます。

映像化できなかった理由

1.未消化の謎があるように思える

 なぜ、白紙の五線譜を見せたのかが僕の中では解せない謎の一つ。
 その1 映画『シャイニング』よろしく、狂ってしまったのか。『シャイニング』にはスランプ中の小説家のジャックが一心不乱にタイプライターに向かってるの場面があるんです。奥さんのウェンディがそれ覗きこむと、「All Work and No Play Makes Jack a Dull Boy(仕事づけで遊ばないとジャック*1はダメな子になる)」という額縁に掛けたいようなありがたすぎて涙が出そうな*2言葉が延々と数十ページに渡って書かれているのです。
 その2 ジョン・ケージの4分33秒*3よろしく何も演奏しないという音楽だったのではないか。
 その3 あぶり出し。さり気なく触れられていますがエディーが告白の手段として音楽をプレゼントする際、歌詞にメッセージを入れて送った、と言っているので、それを使ったのかなぁ、と。
などのさまざまな想像の余地がありますが、最後にマーシャに宛てた手紙を読むと、歌は確かにありますので、2番は否定されます。うーん、というと残る可能性は1か3になるけど……。

2.音楽が非常に難しい。

 あるサウンドノベルの制作に携わらせて頂いているのですが、そこで思ったのが、想像以上に演出が難しい、ということです。この場合、「デビューと同時に伝説化したバンドで、ティーン・エイジャーのあいだでは神様のように崇められていた」カリスマ的なロックンローラーが殺されてますから、曲もカリスマ性のあるものが求められます。
 原作者が求めるような音楽が得られなかったんじゃなかったのかなぁ、と思ったり。

3.コロンボの出番が非常に地味すぎる

 いや、別に007みたいに派手に登場すればいいってもんじゃないですけど(笑)。あまりにも今回は登場が地味すぎて……。いや、別に古畑の「黒田青年の憂鬱」(三谷幸喜『古畑任三郎 殺人事件ファイル』フジテレビ出版所収)のように最後の一場面でチラッと登場するっていう方法も僕はありだと思います。それが一般受けするかはまた別として。

どーでもいいけど

 あれ、サーシャってロシアではおにゃのこの名前じゃなかったっけ?
 フェイトには運命って意味があるんですね!


*1 ここではJackを普通にジャックと訳しているが、任意の男、つまりmen程度の意味なのかもしれない。
*2 ちなみにこの涙は他の意味がある。
*3 何も演奏しないという素敵な音楽。ちなみにJASRACがこれを保護したら際限なく収益が得られる。


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有沢翔治について

同人で文章を書いています。

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・ある家族の肖像(有償依頼)2017年コミティア

白い焔

怪奇探索少年隊

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ましろいろ

こころのかけら

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『めぐる季節の中で』企業依頼

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