島崎藤村詩集 (角川文庫)

概要

 新体詩の代表者、島崎藤村。「初恋」は七・五調の韻律が特徴的で、男性の初恋を歌っている。中学生時代に習った人も多いのではないだろうか。また「狐のわざ」も同様、男性の恋心を題材にしている。一方、「六人の処女」などでも女性を題材にしているが、この詩は明らかに女性が主体である。また、故郷、信州の千曲川を詠んでもいる。

はじめに

 僕は読書をすると、Evernoteに気に入った詩、作者の価値観が凝縮されていると感じた文章などをまとめています。島崎藤村もその例外でなかった……はずなのですが、この間、「初恋」を引用しようと思って、探しても見当たりませんでした。誤って削除したのか、最初からまとめ忘れていたかは定かではありませんが、もう一度Evernoteを作成するために図書館から借りてきました。したがって事実上の再読ですが、前回は新潮、今回は角川です。同じタイトルの記事があると、紛らわしいのでわざと版を変えました。
 本来なら差別問題の関係でトニ・モリスン『青い眼が欲しい』から被差別部落の『破戒』を読み、ついでに再読しようと考えていたのですが、実際に読んで近代文学史を体感しようと思い、薄田泣菫の流れで読むことに。

韻律

 韻律は文語定型詩なので、基本的に古典文法の五七調です。例えば、有名な「初恋」は下記の通り。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな
 音読すれば解る通り、七五、七五の繰り返しで「初恋」は書かれています。よく学校では五音と習いますが、正確にはモーラを数えています。音節は母音を中心に数えられ、「ん」は音節を形成しません。したがって、「林檎」は2音節です。しかしモーラは文化的なリズムと関係しています。例えば、「林檎」は「り・ん・ご」と発音しているでしょう。これがモーラ。したがって、林檎は3モーラの言葉です*1。
 さて、「望郷」も「いざさらば/これをこの世のわかれぞと/のがれいでては住みなれし」とある通り、先頭に5モーラが追加されただけ。五・七・五・七・五を基本としていますが、最終連の最終行は「こひしき塵にわれは焼けなむ」とある通り「七・七」で締めくくられています。
 また、「労働雑詠」は下記の通り。
朝はふたゝびこゝにあり
朝はわれらと共にあり
埋れよ眠行けよ夢
隠れよさらば小夜嵐さよあらし

諸羽もろはうちふる鶏は
咽喉のんどの笛を吹き鳴らし
けふの命の戦闘たたかひ
よそほひせよと叫ぶかな

 野に出でよ野に出でよ
 稲の穂は黄にみのりたり
 草鞋とく結へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ
 リズムは「朝はふたゝびこゝにあり」の箇所は七・五で始まっていますが、「野に出でよ野に出でよ」と一字下げになっている連は、五・五で始まっていることが解ります。リズムに法則性があるので、「鶏は」の振り仮名がなくても「とり」とは読まずに「にわとり」と読むと解るのです。
 そしてリズムと意味の切れ目は密接に結びついています。したがって、「序一」は「こゝろなきうたのしらべは/ひとふさのぶだうのごとし/なさけあるてにもつまれて/あたゞかきさけとなるらむ」と全文ひらがなですが「一房野葡萄のごとし」と読みません、「一房の葡萄のごとし」と誤解を招かないのです。
 七五調は「君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」*2とあるように万葉集から続く、日本古来のリズム。島崎藤村にせよ薄田泣菫にせよ、欧米から詩の形式が入ってきたときにまず、五・七調、七・五調を参考にしながら詩を作っていたと容易に察しが付きましょう。
 島崎藤村は少しリズムを崩した詩も書いています。「千曲川旅情のうた」では「昨日またかくてありけり/今日もまたかくてありなむ/この命なにを齷齪あくせく/明日をのみ思ひわづらふ」とある通り、冒頭の二行が「八・四」「八・四」となっているのです。その後の行では「いくたびか栄枯の夢の/消え浅る谷に下りて/河波のいざよふ見れば」と五・七調になっています。
 薄田泣菫が藤村の後を継ぐのですが、彼は「夕暮海邊に立ちて」で「黄や、くれなゐや、淺葱あさぎの/雲藍色にしづみて」*3とあるように六・四のリズムを織り交ぜながら定型詩を書いています*4。本格的に新たなリズムを模索していたと言えましょう。
 この後、萩原朔太郎や高村光太郎が韻律に捕らわれずに詩を作っていくのですが、島崎藤村の場合は韻文と散文を分けていたように感じます。

郷土

 もちろん島崎藤村が韻文と散文を区別していたと言っても、リズムの上であり、主題は違いません。代表作の一つ「夜明け前」は下記の通り、木曽路の情景が描き出されています。
 木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 この自然描写は詩の中にも現われています。例えば上述の「千曲川旅情のうた」では千曲川の風景を栄枯盛衰の寂寥とともに描いています。
いくたびか栄枯の夢の
消え浅る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き帰る

嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
いにし世を静かに思へ
百年もゝとせ百年もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸にうれひを繫ぐ
 第三連の「嗚呼古城なにをか語り/岸の波なにをか答ふ」では儚い人工物と悠久の自然が対比的に描かれています。
 明治期に入って西洋文化が輸入されると、自然、日本文化を意識しないわけにはいきません。加えて海外と日本以外に東京と地方の対立が読み取れましょう。つまり、東京は政治の中心、大阪は経済の中心……と考えたときに信州特有の要素とは何か、必然的に考えざるを得ません。島崎藤村が行き着いた先は(嗚呼古城なにをか語り」とある通り、一つは古城。もう一つは千曲川などの風景。
 明治の施策として、天皇との関係で記紀が重視されたのだと推察できます。本来、記紀は天照大神、月読尊、火之迦具土など多神論ですが、アニミズムの要素も含んでいます。このような時代背景も自然へ意識を向けるきっかけとなったのかもしれません。
 そのように考えると「序一」の葡萄も信州の特産品だからとも推察できましょう*5。

女性

 さて『若菜集』では多くの女性が詩に描かれています。「初恋」は第一連で「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき」などで林檎が度々登場し、さらに「薄紅の秋の実に/人こひ初めしはじめなり」などとここでも赤色が登場します。もちろん、上述の文脈で言えば、信州という地域性・地域色を出すために、林檎を出したとも解釈できますが、薄紅と「人こひし初め」、つまり初恋とを取り合わせており、「林檎と頬の紅潮をイメージの上で重ね合わせようとしているように感じました。そのような目で読み直すと、「やさしく白き手をのべて」の白は純粋さの象徴だと言えましょう。
 この詩と同様、「狐のわざ」もまた少年の恋心を詠んでいます。
狐のわざ

庭にかくるゝ小狐の
人なきときに夜いでて
秋の葡萄の樹の影に
しのびてぬすむつゆのふさ

恋は狐にあらねども
君は葡萄にあらねども
人しれずこそ忍びいで
君をぬすめる吾心
 ここでは君、つまり恋愛対象を葡萄に喩えていると解ります。君と言えば、今でこそ格下の相手を呼ぶときに使いますが、この時代は親しい異性を呼ぶときに使っていました。同時期の歌人、与謝野晶子は「みだれ髪」に「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」*6と詠んでいますが、この「君」の用法は典型的だと言えましょう。
 藤村の前半で狐がこっそり夜に葡萄を盗むエピソードが語られ、これを踏まえた上で恋を狐に喩えています。イソップ寓話などではずる賢い動物ですが、僕はむしろ化かす動物として日本的に解釈しました。つまり恋愛感情を狐に化かされている時のようだと感じたのだ、と。
 一方、「おきく」は女性を主体としています。前半部はすべてひらがなで、後半部になると漢字も混ざってきますが、圧倒的にひらがなが多い。。
くろかみながく
    やはらかき
をんなごころを
    たれかしる

をとこのかたる
    ことのはを
まこととおもふ
    ことなかれ

をとめごころの
    あさくのみ
いひもつたふる
    をかしさや

みだれてながき
    鬢の毛を(後略)
 ひらがなで書くと「やはらか」さを表現できるので、この詩の主題と合っていると言えましょう。さらに解説で谷村志穂は「四つの袖」のお夏に触れながら、下記の通りのべています*7。
 男は〈をとこ〉として綴られ、女には〈お夏〉という名が与えられている。
 その〈をとこ〉の気息が、手が、口唇がすべて〈お夏〉という一人の女に向けられていく。
 女の息づかい(中略)はすべて伝わってくるように感じられるのは、それは女が〈お夏〉で、男は〈をとこ〉だからだ
 要するに、固有名を与えられない分、〈をとこ〉の存在感が希薄となり、相対的に〈お夏〉の印象が際立っていると指摘しているのです。
 しかし、僕は匿名的な視線は自意識の現れだと解釈しました。恋心を抱くと、意中の異性からの巻線が過剰なまでに気になるかもしれません。しかし、誰かに見られていると思うことで規範から逸脱せずに行動しているのですが、近代化に伴い芽生えたのです*8。
 このような目で見ると「おきく」の詩句「治兵衛はいづれ/恋か名か/忠兵衛も名の/ために果つ」も実名こそ出しているものの、「四つの袖」の〈をとこ〉と同様、限りなく匿名的に描かれています。そしてこれは個人か家柄かを巡っての自意識を現しているとも解釈できましょう。

*1 もちろん「りん・ご」と発音すれば2モーラになる。これは東北弁に見られる。(Wikipedia「モーラ」「シラビーム方言
*2 wikisource「万葉集
*3 薄田泣菫『泣菫詩抄』(岩波書店)
*4 松村緑「解説」(薄田泣菫『泣菫詩抄』岩波書店)
*5 信州のブドウ栽培は明治時代に始まった(株式会社アルプス「信州のぶどうが美味しい理由」)。
*6 与謝野晶子「みだれ髪」(青空文席)
*7 谷村志穂「解説」(島崎藤村『島崎藤村詩集』角川書店)
*8 この辺りの議論はミシェル・フーコー『監獄の誕生』に基づいている(ミシェル・フーコー『監獄の誕生』新潮社