動物部分論・動物運動論・動物進行論 (西洋古典叢書)

概要

 アリストテレスは『動物誌』で精緻に観察を行ない、その結果を動物部分論などで体系化した。「動物部分論」では四肢、頭などに加え、内蔵、骨についても目的論を軸に考察している。また「動物運動論」では、動物がどのようなメカニズムで動くのかについて触れ、「動物進行論」では動物にとって上下などの方向とは何かなどについて述べている。

はじめに

 自然科学そのものより、自然哲学、科学史に興味があります。始めは動機は自然科学を理解したいと考えていました。それで時代順に読めば、大雑把な流れはつかめるのでは思っていたことも科学史に興味を持ったきっかけです。
 乱読でDNAについての本も読んでいたのですが、当然ながら人間とは何なのか、自分とは何なのかが解りません。当然ですが、これは自然科学ではなく、自然哲学の領域だったのです。もちろんハイデガーなどの実存主義をにも目を通していたのですが、自分の〈存在の謎〉についてはしっくり来ませんでした。違和感の原因が、ギリシア語の語源を調べていていたと解った時、ハイデガーへの興味が薄れていきました。ハイデガーはもともと大学時代に、フランス現代思想、特にデリダの文脈で読んでもいました。
 乱読家なのでハイデガーと平行して、クーンなどの科学哲学を読み、面白かったのですが、パラダイム論は科学の歴史を扱っているような気がしました*1。もちろん創作の都合でアラビアの科学などを調べていたこともあるのですが、科学史を意識し始めたのはクーンを読んでからかもしれません。
 この『動物部分論・動物運動論・動物進行論』に興味を持った直接の原因はルクレーティウスの『物の本質について』*2、目的論の否定から、アリストテレスに行き着いたのですが、科学哲学・科学史は飽きてきたので、しばらく別の分野に手を出すかもしれません。

自然科学と自然哲学

 さて、自然科学と自然哲学の違いについて話します。自然科学は自然現象がどのような法則性で動いているのかだけを探求しますが、自然哲学はその法則性をもとにどう生きるべきなのかに踏み込みます。つまり、「人間の本性の分析を含むこともあり、神学、形而上学、心理学、道徳哲学をも含」*3んでいるのです。数学は文字通りに解釈すれば、形而上学とも呼べなくもありませんが*4、少なくともアリストテレスの『形而上学』とは趣が異なります*5。例えば、『形而上学』では従来の学説*6を整理した上で、熱・冷、湿・感として体系化し直しました。冷・湿なら水、冷・乾なら土、熱・湿なら風、熱・感なら火です。この分類は「動物部分論」でも登場します。
自然本性によって構成されたものどものうちの何かを「熱いもの」「冷たいもの」「乾いたもの」「湿ったもの」であると語るのは、どのような意味で必要であることが、見逃されてはならない。なぜなら熱いものなどが生と死の、さらには眠りと目覚めの、病気と健康の、主たる原因だということは明らかなようであるから。
 アリストテレスの『形而上学』においては「第一原因」も重要です。物事には原因があるのなら、その原因にもまた原因があり……と論理的に考えていくとこの世界の根本原因へ行き着きます。これを「第一原因」、もしくは「不動の動者」と呼ぶのですが、キリスト教の神と同一視されるようになりました*7。
 しかし、古代ギリシア哲学はそのままヨーロッパに伝わっていません。異端のネストリウス派がアッバース朝統治下のバグダッドで庇護を受け、そこで発展します*8。数学・天文学・医術などが古代ギリシア、特にアリストテレス哲学とイスラム哲学、インド哲学などとが融合したのです。十二世紀頃から、イスラム世界との商業的な交流などが生まれ*9、アリストテレスなどが西ヨーロッパ諸国に紹介されました。

形而上学と数学と論理学

 またアリストテレスは論理学の本として『オルガノン』*10を残していますが、いわゆる数学の著作は少なくとも見つかっていません。ここで古代ギリシャの数学はピタゴラスやユークリッドに代表されるように数学と言えば幾何学でした。代数はalgebra*11と言うようにアラビアが発症の学問です。
 もう一つの問題は論理学と幾何学の線引きが当時は曖昧でした。その証拠にプラトンはアカデミアを創設し、「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」と書かれていたほど*12。日本の学校教育で幾何学と言えば、三平方の定理を暗記して、とにかく数字を導き出せるようにするのですが、プラトンは「感覚ではなく、思惟によって知ることを訓練するために必須不可欠のものであるとの位置付け」*13だったのです。
 アリストテレスはアカデメイアの出身ですので、好き嫌いや得手不得手は別にしても、その教養はあったはずですし、また当時の天文学では幾何学が必須でした*14。また「動物運動論」には幾何学の話が載っており、「数学の対象は何一つとして運動していないから」「彼ら〔プラトン派〕の虚構」だとアリストテレスの数学観が垣間見えます。また『形而上学』には、「その研究対象の何であるか〔本質〕についてはなんの説明もしないで、かえってこれから出発している」*15と数学的諸対象についての研究に不満を漏らしています。現実世界には1つのリンゴ、1つの石、1回のノックなど個別の1は存在しますが、「1」一般は存在しません。1分、1リットル、1グラムを説明しうるような。
 これがアリストテレスの数学に対する問題意識だったのでしょう。

自然

 それ故かは定かではありませんが、演繹的なプラトンとは異なり、アリストテレスは形のある物から帰納法を用いて法則性を導き出します。『動物誌』を読みながら、本当によく観察していると関心しました。『動物誌』は観察や伝承を客観的な記述(に努めようとしている*16)なので、アリストテレスの哲学が押し出されていませんでした。それ故、紀元前にイルカの生態が解ってるなどは驚きましたし*17、「アリストテレスの提灯」*18の記述を見つけた時はトリビアの泉を思い出し懐かしくもなりました*19。
 一方の『動物部分論・動物運動論・動物進行論』は間違いこそ多いのですが、今日の科学的知見を知りたければ、アリストテレスなどは読むべきではありません。福岡福一の『生物と無生物のあいだ』*20、酒井仙吉『哺乳類誕生』*21など、適切な本が多くあります。しかし、アリストテレスが自然についてどのように考えていたか、そして、彼の自然観がどのように受容されていったかは、『動物部分論・動物運動論・動物進行論』などを読むのが一番確実。

目的論とその限界

 さて、『動物部分論・動物運動論・動物進行論』では、自然がすべての生物を作ったと考えられています。

目的論とは

 キリスト教の権威付けにギリシア哲学が使われたようにも感じますが、下記の通り、相性の良さは否めません。
胸部を取り囲む肋骨は心臓のまわりの臓を保護するためにある。しかし、腸のまわりの部分には[肋骨のような]骨が全然ない。それは栄養物によって必然的に生じる膨張を妨げないためであり、そして雌にとっては雌自身のうちで胎児の成長を妨げないためである。
 繰り返されるのが、「自然は何も無駄になすことはない」「自然は無駄なことも余計なこともしない」などのフレーズ。さらには「腎臓は(中略)善と美のために備わっている」と述べており、膀胱のはたらきをよくするためだと考えました。腎臓は一つでも生きていけるので、補助的だと考えても仕方がありませんが、「善と美のため」と捉える辺り、アリストテレスの自然観が出ていると言えましょう。
 解説で坂下浩司は「最善性公理」「経済性公理」*22と呼んでいます。つまり、自然は最適な状態で動物を作ったと考えていたのです。最善性公理は経済性公理で説明できないときの辻褄合わせではないかと感じましたが、自然界を見守せば「経済性公理」が成り立っていると考えても了解できましょう。その典型例がゾウの鼻についての考察。
自然はいつもやるように、同一の部分[鼻]を多くのことに転用している。それは前足を手として使う代わりにそうしているのである。実際、多くの指をもつ四足動物は手の代わりに前足をもっているが、それはその動物の重量を支えるためだけのものではないから。(中略)
 ゾウは呼吸にゆえに鼻をもつ。(中略)しかしゾウは湿ったところ[水中]で時をすごしていることとそこから移動するのがのろいことのゆえに長くて巻き上げることのできる鼻をもつのである。そして、ゾウは、[前]足が手として使用できなくされているので、まさに自然が、ちょうど私が述べたように、足から生じるはずの補助のためにも、その部分[鼻]を転用するのである。
つまり、足が前足が体を支えるためだけにあるので、長い鼻を自然は作ったと考えているのです。この他にも「殻皮物動は自然が硬いもの[貝殻]を肉質部のまわりに置いたが、それは、殻皮動物の動きのにぶさゆえの危険から殻皮動物が救われるようにしたのである」とある通り、アリストテレスは目的論で考えてました。
 そして、この自然と動物の考えは「動物の諸々の似像を見て喜ぶのは、似像を作り出した絵画術や彫刻師のような技術を似像と同時に見るからであるのに、自然本性によって構成されたものどもの諸原因を見てとる力のある者たちが、それらの研究にもっと満足しないとすれば、実に不合理で奇妙なことであろうからだ」とある通り、しばしば技術・工芸に喩えられています。
 この他にも、「自然は、二つの器官を二つのはたらきに転用することができて、しかも一方が他方を妨げないときには、ちょうど青銅細工術が値段を安くするために、焼き串燭台を作るようなことはしないようにしているのであって、それが可能でないときに、同一の器府を、より多くのはたらきに転用するからである」など。
 この自然についての考えは芸術論の詩学にも現れています*23。
 実物そのものとしてはわれわれが心を傷めながら見るところでも、それらのとくに正確な模写であれば、よろこんで観照するからである。たとえば、最もいやな動物や屍体の体姿についてもそうである。
 原文を読んだわけではないので、「実物」と訳されている言葉がピュシスなのかは解りませんが、後半部を読めば自然物の模写が語られていると解りましょう。
 またアリストテレスは第一原因の箇所で説明した通り、始原も重要です。方向を単なる大地を下、天を上と定義せずに、「諸々の生物にとって栄養物の分配と成長がはじまるところがはたらきの点で上であり、それが最後に終わるところがはたらきの上での下なのである」と定義しています。
 これに関連して、心臓を行動の起点と考えていたと記されています。
心臓の位置も、総括する始原に適した場所にある。実際、中央付近に、かつ下より後の方に、後よりも前の方にあるから。自然は、何かより大きなものが妨げない限り、より尊いものを、より尊い場所に置いたからである。
 血液の始点だと解釈すれば了解可能でしょうが、アリストテレスは魂が心臓にあると考えていました。それ故、「魂が体の何らかの始原[心臓]に存在するのであり、他の諸部分は、心臓と関係するように生き、自然本性のゆえにそれら自身のはたらきをなすのである」とある通り、行為の始点でもあるのです。
 そして目的論で考えると、器官と動物の行動が体系的に説明しやすくなります。

目的論の限界

 このようにアリストテレスは目的論で生物の特徴を説明しました。目的論を持ち出すと、必然的に創造主*24を存在を持ち出さなければなりません。フランシス・ベーコンはアリストテレスの目的論を否定*25するのですが、当時からすでに目的論だけで説明しようと考えていませんでした。
自然は、時には、剰余物すら、有益なことに転用するのだが、しかし、それだからといってあらゆることについて、それが何のためにあるかと探求してはならない。そうではなく、或るものどもがそのようである時、それらゆえに他の多くのものが必然的に起こるのである。
 訳注には「すべての自然現象を目的で説明するわけではない」*26とあります。加えて「しかも一方が他方を妨げないとき」「自然は、何かより大きなものが妨げない限り」などと条件を付けている点も苦し紛れだと感じます。

*1 トーマス・クーン『科学革命の構造』(みすず書房)
*2 ルクレーティウス『物の本質について』(岩波書店)
*3 Wikipedia「自然哲学」 *4 数そのものがある意味で形而上学的と言える。
*5 Wikipedia「形而上学(アリストテレス)
*6 例えばタレス、エンペドクレスなど。 
*7 Wikipedia「不動の動者
*8 B.C. ヴィッカリー『歴史のなかの科学コミュニケーション』(勁草書房)
*9 伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』(岩波書店)
*10 Wikipedia「オルガノン
*11 alはアラビア語の定冠詞である。もっとも算術のレベルであれば当然、ギリシア時代にもあった。
*12 Wikipedia「アカデメイア
*13 同上。
*14 例えば天体からの距離を測るには三角比が必要となる。
*15 アリストテレス『形而上学(上)』(岩波書店)
*16 例えば、女性蔑視の態度が見られる(アリストテレス『動物誌(下)』岩波書店)。
*17 イルカは声を出すなどの記述がある(アリストテレス『動物誌(上)』岩波書店)
*18 アリストテレス『動物誌(上)』岩波書店
*19 トリビアの泉ではアリストテレスの提灯が取り上げられたことがある(2004年9月8日放送)
*20 福岡福一『生物と無生物のあいだ』(講談社)
*21 酒井仙吉『哺乳類誕生』(講談社)
*22 坂下浩司「解説」(アリストテレス『動物部分論・動物運動論・動物進行論』京都大学学術出版会)
*23 アリストテレス「詩学」(アリストテレス『〈世界の大思想2〉ニコマコス倫理学/デ・アニマ(霊魂について)/詩学』(河出書房)
*24 神と言い替えても通じるが、現世利益的な側面はない。
*25 フランシス・ベーコン『学問の進歩』(岩波書店)
*26 坂下浩司「訳注」(アリストテレス『動物部分論・動物運動論・動物進行論』京都大学学術出版会)