監獄の誕生<新装版> : 監視と処罰

概要

 中世までは車牽きに八つ裂きなど、残虐な刑罰が用いられてきた。しかし近代に入って、このような身体刑は姿を消し、懲役刑が主流となる。一見、囚人の人権に配慮したように見えるし、またその一面も否定できない。しかし表向きの理由だとフーコーは考える。ベンサムの考えた監獄を例に、より社会を効率的な統治機構に作り変えていったと証明していくのである。

はじめに

 僕は大学三年から社会人にかけて哲学書に熱を上げていました。ゼミの先生からニーチェを勧められたり、確か映画の講義だったかと思いますが、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』が取り上げられたりしたのがきっかけです。
 大学四年にはハイデガー(の解説書)を読むように。もちろん、理解したとは言いがたいレベルなのですが、そのころにミシェル・フーコーなどのフランス現代思想に出会いました。初めてのフランス現代思想は確かデリダ『アポリア』か、『精神について』か、とにかくデリダのハイデガー批判です。
 その後、就職したのですが、障碍で上手くいかず三年で退職。次の職が見つかるまで、雇用保険などで収入を得ていたのですが、その間、作業所に通いながら、ずっと読書三昧の日々を送っていました。幸いにも社会実験の一貫として、公立大学の先生が軽作業を行なっていたのです。公立大学なので、市民でも申請さえ行なえば、貸し出し証を作れるんです。ミシェル・フーコーは確かその公立大学の図書館で借りたと記憶しています。この時に『狂気の歴史』『性の歴史』などを読みました。

パノプティコン

 さて、長々と自分語りをしたのは、『監獄の誕生』と関わるからです。まず、『監獄の誕生』ではパノプティコンが登場しますが、これは近代に入って作り出した統治の方法。実際に監視しなくとも監視していると思わせることで、それぞれの内面に架空の視線を植えつけるのです。そしてこの架空の視線を植えつけるのが、一望監視装置、すなわちパノプティコンの大元の意味です。800px-Panopticon

監獄

 イギリスの哲学者、ベンサムは監獄の設計に携わり、この際、ドーナツ型に房(右図A)を配置するように提言しました*1。そしてこの中央部(右図N)から監視すれば、効率的に監視できるのです。さらにこれだけではありません。NからAに向かって光を放てば、囚人からは看守の姿が見えなくなります。実際に監視していなくとも監視されていると思わせることができるのです。囚人たちは架空の看守を意識しながら、行動するようになるとベンサムは考えました。彼の提案は当時、採用されなかったのですが、後にパノプティコンの刑務所がアメリカなどで建設されます。
 さらにもう一つ、近代に入って、司法も大きく様変わりしました。フランス革命以前は、犯人を上げて残虐な刑罰を見せしめに与えていただけだったのですが、科学的な操作のきざしが見えはじめます。そして精神病者は罰しないと規定されるようになりました。公平に罰せられて、社会が進んだとフーコーは考えていません。
犯罪者個人をめぐる、評価・診断・予後・規範にかんする判断の総体が、刑事裁判の骨組のなかに入り込んでしまっている。法律の装置が要請してきた真実のなかに、別の真実がもぐりこんだわけである。すなわち前者〔犯人の名前、罪状〕ともつれあいつつ、罪状の断定をもとに科学的で法律的な奇妙な複合体をつくりあげる真実が。意味深い一つの事実があるけれども、それは狂気の問題が刑罰の実施で進展してきた、その方法である。
 つまり、本来なら法律と医学は全く関係ないのに、結びついたと指摘しているのです。加えて犯罪抑止の効果も期待できます。法を犯せば誰もが罰せられると民衆に信じさせれば、法律に違反しなくなるでしょう。したがって下記の通り、フーコーは述べています。
刑罰が与える最もつよい効果は、悪事を働かなかった人々から得られるものでなければならない。極端な例をあげれば、罪人が二度と悪事を働くことはありえないともしも確実視できる場合には、他の人々には、その罪人は処罰されたと信じこませるだけで、効果は充分だと言えるだろう。
 これは司法の場に留まりません。軍隊、学校、病院、工場……、つまり社会全体に及んでいるのです。

学校

 教室は教卓が前にありますが、これも一箇所にいながらにして教師から生従を見渡せるので、パノプティコンの要件を満たしていると言えましょう。さらに十八世紀のヨーロッパでは上級生が下級生を教えていたそうです。これにより、下級生を指導する手間が省け、上級生のクラスを管理するだけで、連鎖的に下級生まで管理できるようになるのです。
 日本でこの方式を採用している学校は少なそうですが、強いていえば、隣の席と漢字の書き取りなどを交換して採点することが近いかもしれません。あのシステムは教師が全員の答案を集めて採点するよりも手間が省けます。
 また役割分担も管理システムの一貫だと言います。当時のヨーロッパと現在の日本ではそもそも制度が違うので一概に比較はできませんが、これもまた教師の肩代わりをしているといいます。
たとえば「観察係」は「誰が席を離れたか、(中略)」を書きとめなければならない。「忠告係」は勉強中に話したり(中略)ものを書かなかったり(中略)する者に気をつける」役目をもち(中略)「元締め」はといえば他のすべての係の者を監視する。
 現在はここまで極端でないにせよ(僕の小中学校時代には)風紀委員がありました。
 また欠席者などの家を訪問する「訪問係」。これは家が近い子供が、配布物を届けていたので、一部担っていると言えましょう。

規律・訓練

 さて、このように見ていくと、学校の正体が生徒を管理する場だと暴露されたのではないかと思います。近年、ブラック校則が問題視/されていますが*、まさに、『監獄の誕生』を読めば、理解できましょう。
 さて、十八世紀の学校は椅子への座り方からペンと手の角度まで事細かに規定されていました。このような細部にいたるまでの規律・訓練はキリスト教神学の影響を受けているとフーコーは指摘します。
細部の卓越性を重視する大きな伝統に、やがて難なくつけ加わるようになるのが、キリスト教教育に、学校ないし軍隊での教育方法に、最後にすべての訓育係式に含まれる細部重視策である。真の信仰者がそうであるように、規律・訓練を加えられる人間にはどんな細部もが無関係ではない、しかも、その細部に隠される意味でよりも、その細部を把握したいと望む力がそこに見出す手がかりの点で無関係でないのである。
 また、この細部への把握は体育の授業に現れていると言えましょう。笛の鳴る回数などで生徒を動かしていたとフーコーは指摘していますが、まさに体育の授業を思い起こさせます。
 結果、「規律・訓練は、服従させられ訓練される身体を、《従順な》身体を造り出す」のです。そして、これは学校だけではなく、刑務所などでも同じ。従って、生徒を規律・訓練で同質化するのです。そしてこの等質化の根拠は試験です。
規律・訓練を受ける個人性についての一連の記号体系がすっかり形成されるのであり、その体系のおかげで、試験によって確定される個人的な特色が、同質化されつつ書き取られるのである。たとえば(中略)行状と成積についての学校的な、もしくは軍隊的なそれ。こうした記号体系は、質的な点でも質的な点でも〔有沢注:十八世紀の時点では〕まだきわめて初歩的なものであったが、しかし、権力の諸関係における個人的なるものの最初の《定式化》の時期を明示している。
 記号体系とはソシュール言語学の用語で、言語活動にまつわる社会的な約束事です。例えば、「不幸があった」と言ったら、字義通りに解釈すれば、災いが起きたという意味ですが、少なくとも社会人ならそのような解釈はしません。誰か死んだという意味で捉えます。発話・書記行為だけではありません。上から下まで真っ黒な服を着て、数珠を持っていたら、葬式に参列すると予想できましょう。さらにもう一つの特徴として、コードそのものに根拠などはありません。例えば、葬式に黒い服を着なければいけないのは法律で決まっているわけではなく、強いていえば文化。現に明治時代初期までの喪服は白かったのです*2。
 これを上の文脈に当てはめると、例えば5段階評価でオール5を取ったら、5が高得点だという社会的な約束事があるからですし、もっと言えば一般的に東京大学への憧れは、官僚養成校としての歴史よりも単純に偏差値が高いからだと言えましょう。僕にとっては単なる大学の一つですが!
 また学校だけが試験を行ない規格化するのではありません。精神病でも同じです。一般にはあまり知られてないかもしれませんが、発達障害や高次脳機能障害だと診断されると知能検査を行ないます。その成積に応じて、障害等級が決まるのですが、これも全く学校と同じです。何で誰かに〈僕〉を決められなきゃいけないんだ。

学校は真実を教える場でありません

 さて、学校では教えない真実と言いますが、大きな誤解があります。すでに見たように、そもそも学校は真実を教える場ではなく、約束事を叩き込む場だからです。
 例えば、助詞の「わ」は「は」と書くなどの正書法、理科では対照実験を行なわなければ真実として認められないこと、そして掛け算には乗数・被乗数の概念があること*3、司法制度が犯罪を処罰するのに精神医学を必要としたのと同様に、数学的な真実だけではなく、教育にも心理学の力を借りなければなりません。例えばピアジェの発達心理学などの観点がフーコーの言葉を借りれば「奇妙な複合体をつくりあげ」ているのです。僕は認知科学・数理哲学の観点から興味を抱いているのですが、批判する時は発達心理学・教育学など複合的に考えなければ片手落ちになりかねません。
 身も蓋もない言い方をすれば文部科学省の学習指導要領に沿って*4、それこそ「同質的に」教えているだけ。学校を真実を教える場だと考えるから本質を見誤るのです。繰り返しますが、学校は真実を教える場でありません。規律・訓練を行ない、細部に至るまで子供を同質化する場です。
 大学に行けば、真実を教えてくれるかと言ったら、必ずしもそうではありません。せいぜい、その分野でどのようにアプローチすれば、真実と認定されるかを教えているかに過ぎません。あるいはその道具立て。
 例えば、文学なら解釈の妥当性が決め手になります。精神分析や修辞学も学びますが、あくまでも解釈の道具立てです。決して、科学的な妥当性は賛否両論ありますが、精神分析を学んだからと言って、真実が解るわけではありません。
 何をもって「真実」と考えるかは議論が必要ですが、真実は能動的に見つけなければいけないと信じています。

学校や社会の息苦しさ

 さて、学校や社会が何となく息苦しいと感じているかもしれませんが、その原因は学校が規律・訓練を行なっていると気付いてしまったからかもしれません。尾崎豊の歌詞のように、「校舎の裏でたばこを更かしても」*5規律から抜け出したように見えて、より上位の、あるいは他の規律に引っかかるだけ。この規律はコードと結びついている以上、根拠がありません。例えば高学歴が良いというのも一つの約束事にすぎませんし、その延長線上にある高収入が良いという価値観も拝金主義の約束事です。そして健常者が優れているという考えすら拙速な価値観に過ぎません。
 現にフーコーは『狂気の歴史』で「一八世紀はもはや狂気を定義する能力がないのを告白したまさにその時点において性急で僭越な確信をもって、狂人を認知できるとしたのである」*6と述べています。狂人とは自分たちと違う人と定義している以上、差異は認識できても、同じだとは確証できません。むしろ人間ですからどこか違っているのは当然。そして、究極的には了解可能か否かで狂人か否かを分けているのですが、解釈を重ねていけば、精神病者の発言すらも了解可能となります。
 例えば、ユングは「私はローレライだ」と呟き続ける女性を診察しています*7。女性の名前はバベッドでローレライではありません。それどころか周囲にローレライという人はいませんでした。しかしハイネの詩「ローレライ」を読んだ瞬間、謎はすべて解けたのです。「なぜかわからないが」という一文で始まっていました。そう、意味不明な言動だと思われても患者には重要な意味があったのです。このような齟齬は日常会話でも多かれ少なかれ起こり得ます。例えば「私はホームズです」と言っても相手がシャーロック・ホームズを知らなければ通じません。
 つまり、理解不能な言動を狂人の定義だと挙げるわけにはいかなくなるでしょう。また、狂気は政治的な意図を含む時もあります。例えばロシアでは政治活動家の支援者を精神病患者として扱っています*8。このような問題がある以上、狂気/正気の境目は難しくなります。そしてそれと同時に健常者/障碍者の境目も。
 むしろ約束事の、より専門的にいえばコードの根源を吟味すれば息苦しさから解き放たれるかもしれません。恋人を作るには、結婚するには、収入を上げるには……などと、昨今、どうも幸せという餌で釣りながら「規律・訓練」を促す傾向にあるように感じます。これは結婚紹介所や転職サイトがマーケティング戦略によって作られた価値観に過ぎません。もちろん、心から望んで受けているなら構わないのですが……。
 誰がなんと言おうとも、生きたいように生きると監獄の社会から抜け出せるかもしれません。

*1 Wikipedia「パノプティコン
*2 Wikipedia「喪服
*3 厳密に言えばペアノの公理から導き出さなければいけない。
*4 文部科学省「小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 算数編
*5 尾崎豊「15の夜」
*6 ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(新潮社)
*7 ユング『ユング自伝(1)』みすず書房
*8 「ロシア連邦:ロシア 活動家が精神病院から釈放」(アムネスティ)


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