高村光太郎詩集 (新潮文庫)

概要

 『智恵子抄』の「レモン哀歌」など、有名な詩を多く残した高村光太郎。彼は欧米に留学し、ボードレールやヴェルレーヌなどの詩を学んだ。帰国後、処女詩集「道程」を発表。
 また、父は有名な彫刻家の高村光雲で、その影響からか彫刻にも興味を持っている。その証拠にロダンを詠んだ詩や評伝も書いている。

詩の楽しみ方

 読んで楽しむ他に音読や朗読を通しても、詩は楽しめます。特に明治期には音読から黙読への過渡期でした。例えば明治期の詩人、島崎藤村は五・七調で詩を作っています。これは声に出して読むことを前提に作られたものだと言えるでしょう。
 高村光太郎の詩も、いくつか声を意識したと思われるような詩があります。例えば、「米久の晩餐」は店員や客の台詞がそのまま使われていて、「声」を意識していますし、「丸善工場の女工達」も「声」から始まっています。

さびしきみち

 また少なくとも僕は、ですけど、「さびしきみち」は声に出さなければ、全部ひらがななので、意味が取りにくかったです。どうして全部ひらがなで書いたのか、解釈してみました。まず思いつくのが、子供、あるいは知的障害者が書いていることにしたいケース。
 しかし、「さびしきみち」では文体が大人びているためこのケースには当てはまりません。そこでわざと読みにくくすることで、声に出して読んでもらおうとしたのではないか、と推察しました。また、これは声に出したときの感じを文字で表そうとしているとも解釈できます。声に出してしまうと、当然、文字を頭で思い描かなければなりません。例えば「はしがある」と声で言ったとき、「箸」か「橋」なのか、意味が即座に決定できないという問題があります。全部ひらがなにして、声が持つ意味の決定不可能性を表現したかったのだとも読めるのです。

或る筆記通話

 声と文字の関係で言えば、「或る筆記通話」も注目すべきでしょう。下記のような詩です。
 おほかみのお──レントゲンのレ──はやぶさのは──まむしのま──駝鳥のだ──うしうまのう──ゴリラのご──河童のか──ヌルミのぬ──うしうまのう──ゴリラのご──くじらのく──とかげのと──きりんのき──はやぶさのは──獅子のし──ヌルミのぬ──とかげのと──きりんのき──をはり
 まず、この文章を普通の文章に直すと「おれはまだうごかぬうごくときはしぬとき」、つまり「俺はまだ動かぬ、動く時は死ぬ時」になります。この一連の過程は詩の登場人物の声を、そのまま口述筆記をしている人が文字に起こしている過程とそのまま重なります。
 それと同時に、状況もかなり推察できます。動くのは口だけ、しかも命に関わるような、寝たきりの重篤な病にかかっていることが最後まで読むと解ります。「動く時は死ぬ時」の一文は、寝たきりの病人が、「動く」とき、つまり病死して火葬場へ運ばれていくときを言っているのでしょう。
 加えて、病人とこの筆記者の間柄も推察できます。内容は遺産相続でもなければ、生理的欲求を訴えるものでもありません。事務手続きや看護的な視点からすると無用なもの。そしてこのような無用な文章を口述筆記しているのですから、親しい間柄だということになります。
 さらに、無意識もある程度は推察できます。「おほかみ」「はやぶさ」「まむし」などの動物が多く、生きたいという意志が連想している動物からも感じられました。

美術

 さて、高村光太郎は「アメリカ・イギリス・フランスへ美術留学をして」*1います。そのせいもあって、「失はれたるモナ・リザ」、ノートルダム大聖堂を歌った「雨にうたるるカテドラル」などでは建築物や絵画を詩に詠んでいます。
 『失われたるモナ・リザ』はもしモナ・リザが絵の中から立ち去ってしまったらどのように歩くのだろうか、という詩です。モナ・リザの絵をそのまま描写したら、ただの説明文でしょう。しかし、比喩なり発想なりで作者なりの視点・感覚を加えることで、独自性が生まれ、それが詩の核となっているのです。
 その点において、ノートルダム大聖堂から「よろこぶせむしのクワジモト」とユーゴーの『ノートルダムのせむし男』を連想する辺り、やや平凡。しかし、「薔薇色のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく無数の小さな光つたエルフ」と雨粒を妖精のエルフに喩える辺り、独創的で詩情を感じます。
 さらに「あなたを見上げてゐるのはこのわたしです/(中略)わたくしの心はあなたを見て身ぶるひします」と無生物のノートルダム大聖堂に呼びかけ、あたかも人格があるように描いています。ここから高村光太郎がノートルダム大聖堂をどのような思いで見ていたか解ります。そしてこの畏敬の念はノートルダム大聖堂のみならず、美術品全般に及んでいることが「失はれたるモナ・リザ」「車中のロダン」などからも推察できましょう。

 この『高村光太郎詩集』では冬を題材にした詩が多く収録されている印象を持ちました。おおむね、厳しい冬というイメージで歌われているようです。

冬が来る

 例えば「冬が来る」以下の通り。
 冬が来る。
 寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る。

 ほら、又ろろろんと響いた
 連発銃の音

 (中略)
 不思議な生をつくづく考へれば
 ふと角兵衛が逆立ちをする

 私達の愛を愛といつてはしまふのは止さう。
 (中略)
 
 冬が来る、冬が来る
 魂をとどろかして、あの強い、鋭い、力の権化の冬が来る。
「透明な冬」とは冬場の澄んだ空気を表現しているとも取れましょうが、それに呼応して心も澄んでいると解釈しました。
 「不思議な生をつくづくと考へれば、ふと角兵衛が逆立ちをする」という状況から、正月の光景だと限定できます。角兵衛とは角兵衛獅子で、越後地方の獅子舞。江戸時代には江戸で舞われていたので、地域までは特定できませんが、由来を知っていれば、越後地方を連想するでしょう。
 連発銃の音から、誰かが狩りをしているのだろうと推察できます。獅子舞が踊っていて、かつ連発銃の音が聞こえるような場所に、詩の〈語り手〉は立っているのです。つまり山村でしょう。
 どうして「不思議な生を考へて」いるのでしょうか。連発銃を撃って、獲物を捕らえています。しかし、冬の、しかも正月に猟をしているのですから、遭難の危険性を考えると、娯楽ではありません。この人は生計を立てるために動物を殺しているのです。
 このことを考えると普段、動物が可哀想とか、無駄な殺生とか軽々しく口にできなくなります。「私達の愛を愛と言つてしまふのは止さう」という一文はそれを踏まえてのことでしょう。
 そして全てを包み込むかのような冬の光景で詩は締めくくられているのです。

冬の奴

 「冬の奴」と「冬が来た」は、冬を力強いだけでなく、忌み嫌われるものとして描いています。しかし、そればかりではなく「冬よ/僕に来い/僕に来い/冬は僕の力/冬は僕の餌食だ」などと、冬をエネルギーとして取り込もうとする姿勢も窺えます。ここで描かれている「冬」は季節的な意味合いだけではなく、人生の停滞期を象徴しているとも解釈できます。
 冬に呼びかけている点で「冬が来た」には冬を擬人化していると言えましょう。しかし、「冬の奴が(中略)嚏をすると」などと「冬の奴」で冬の擬人化はさらに深まっていきます。季節の擬人化は日本古来のアミニズム以外にも古代ギリシャで行なわれていました。

群衆

 高村光太郎はフランス留学でボードレールなどを学びました。そのボードレールも群衆を描いています。
 例えば「巴里の憂鬱」では、赤ん坊をあやそうと老婆が近づいたら、泣いてしまって寂しい思いをする詩が綴られています。「そこでその優しい老婆は、永遠の彼女の孤独の中に身を退け、そうしてとある片隅で涙を流した」*2。このように『巴里の憂鬱』では、孤独な人々が多く描かれているのですが*3、高村光太郎の描く群衆は孤独なものとして描いていません。
 むしろ「米久の晩餐」からは群衆を生き生きとしたもの、明るいものとして描いています。この違いはボードレールの精神状態にも依るのでしょうが、僕は家族主義か個人主義かの違いに依っているのだと推察しました。
 さらに言えば大正時代には成金が登場したことからも解るように、好景気。「米久の晩餐」でもこの空気が描かれているのかもしれません。

*1 伊藤信吉「解説」(高村光太郎『高村光太郎詩集』新潮社)
*2 ボードレール「老婆の絶望」(ボードレール『巴里の憂鬱』新潮社)
*3 この辺りはヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(ヴァルター・ベンヤミン『ボードレール 他五篇』岩波書店)参照。