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科学的精神の形成―対象認識の精神分析のために (平凡社ライブラリー は 29-1)

概要

 十八世紀、十九世紀の自然科学は誤解と偏見に満ちていた。例えば宝石には雌雄があり、雌の宝石はよりキレイに輝くと考えられていた。
 これ自体だけ見ると、単なる前近代的な考えにすぎない。彼らの文献を精神分析的に読み解くことでガストン・バシュラールは、一定の傾向を見出している。そしてその傾向は決して過去のものではなく、現代にも当てはまるのである。「科学」の認識とはどうあるべきかに一石を投じた。

動機

 科学について詳しく知りたかったんです。加えて、ガストン・バシュラールは以前『火の精神分析』が面白かったので手を出しました。フロイトに影響を受けているので、精神分析という単語にも反応しました。読んでみて思ったことは「面白い」でした。もちろん「埃がくっつくので電気は糊である」という現代からしてみたらありえないような考えも面白かったのですが、それ以上にバシュラールの分析力に感嘆しました。
 クーンやポパーなどの科学哲学からは外れるかもしれませんし、十七世紀、十八世紀の文献を分析する手法はミシェル・フーコーのように感じて苦手な人は苦手なのかもしれませんが*1。

科学の三つの時代

 バシュラールは本書において科学を三つの時代に分類しています:
1.自然哲学の時代:ギリシャ時代からニュートンまで。
2.自然科学の時代:十八世紀末の準備期から十九世紀全体と二十世紀初頭を含む
3.新科学的精神の時代:「アインシュタインの相対性理論が、それまで永久不変だと信じられていた根本概念に修正を加えた」一九○五年が始まりの年です。
 アインシュタインが覆した根本概念は時間と空間についても言えるのですが、理論の世界が実在の世界と等しく扱われるようになったことをバシュラールは指摘しているのだと思います。
 「抽象的物理学〔理論物理学〕は遠からず経験のあらゆる可能性を制御するであろう」とバシュラールは述べていますが、ニュートンとっては数学を自分の理論を説明する道具立てにすぎませんでした。しかしアインシュタインの時代ともなれば、数学的厳密さが実在を裏付ける証拠と成り得たのです*2。
 ここでは主に2を取り上げています。しかし、「科学は単一性を求める」、言ってみればよりシンプルな理屈で世界を説明しようとしているのです。

最初の経験

 さて、認識を誤らせる一つのキーワードとしてバシュラールが上げているのが、最初の経験です。「批判critique以前に、しかも批判のおよばないところに位置している経験である」と定義しています。
 バシュラールは雷に関する十八世紀の「科学」論文を参照しながらこう述べています。
 まず著者は雷のこわさについて読者と話してから、この恐れの根拠のなさを証明しようと試み、昔から言われていることをまた繰り返す必要を感じるであろう。
 よく小説などで不気味な場面で雷がなる場面があります。バシュラールはほぼ同時期のテクスト、『若きウェルテルの悩み』にその場面を見出しているのですが、この雷は不気味なもの、不吉なものであるというイメージは現代にも間違いなく受け継がれています*3。
 このように十八世紀の科学が最初に対峙/退治しなければ行けなかったのは、「現代人を不安にする原因は人間的な原因」だとあるように人間の心の問題だったのです。 
 この雷の例から解るように、人間の恐怖心こそが科学的思考を妨げている要因だとバシュラールは指摘しています。しかしバシュラールの「自然現象の方は説明がついてしまったので、武装を解除されてしまっている」という指摘は当てはまらないように思います。これは多かれ少なかれ、二十一世紀を生きる我々にも通じるところがあります。
 例えば原発問題。最初に僕の立場を表明しておくなら、条件付きで賛成です。ただし原子力が火力発電と同じように人間の手で制御できるようになれば、の話です。そして当分このテクノロジーは完成しそうにありませんので、脱原発というわけです。
 しかし、放射脳と揶揄されるように放射能──正確には放射性物質──と聞くだけで頭ごなしに否定するのは間違っています。宇宙からは放射線が常時降り注いでいますし*4、X線も放射線です。また癌の治療にも放射線が使われています。

電気学

 さて十七世紀、電気の研究が盛んに行われますが、「変化を求めるのではなく変種を求める」と述べています。今でこそ電気を電流と電圧などで一般化していますが、ゲオルグ・オームの出現以前まで「もっとも多様な物質に付着しているのだ、と捉え」ていました。
 例えば宝石、硫黄などにと関係付け、外見と電気の関係を導き出そうとしていたのです。
 初期の電気学はその物珍しさ故に大衆の関心の的になりました。加えて「十八世紀の科学はまだ生計を立てられるものでは」ありません。必然的に科学実験は貴族や大衆の見世物となってなっていったのです。例えばバシュラールはフランクリンの手紙を引用しています:
 七面鳥を電気ショックで殺し、電気回転の焼串に刺し、さらに電気瓶によって点火した火の上で焼肉とした。充電池が放電の音を立て、帯電したグラスで、英、蘭、仏、独の有名な電気学者の健康を祝して乾杯した。
 この「電気の晩餐会」から窺えることは、電気を駆使した異常なまでの演出です。
 バシュラールは「子供っぽい興味」と述べていますが、こうした演出が科学の本質とは逆方向に向かうと指摘しています。
 別の例では、「にわとこの髄を球にし電線をうえて電気蜘蛛を作った」と紹介しています。電気蜘蛛の例でもそうなのですが、生命と電気は安易に結び付けられやすいものでした。
 実際のところ、われわれは十八世紀において自動人形がどんなに重大な問題であったか検討もつかないのである。電気の通じている場で<踊る>厚紙の小人形は、その運動がどこからみても機械的な原因をもたないため、生命にごく近いと思われていた。
 機械的な原因とはゼンマイ、歯車、バネなどのメカニカルな仕掛けをさします。
 バシュラールは例示していないのですが、自動人形をテーマにした作家にホフマンがいます。ホフマンに登場する人形はからくり人形なので事情は違いますが、メアリ・シェリーのフランケンシュタインなどは電気と生命が、安易に、そして無邪気に結び付けられた例と考えていいでしょう。

イマージュ

 さて、電気は生命であるというイメージが流布していたことをバシュラールは指摘していますが、彼はもう一つ海綿を例に取っています。一七三一年、レオミュールは「空気を木綿とかウールとか、界面のようにみなすこと、しかも空気をそのほかの全物体とか、それと比較しうるような全物体の集合よりもはるかに海綿状のものだとみなすことはかなり一般的な考えである」と述べています。レオミュールは「空気の海綿」という言い回しを使っていますが、これはあくまでも現代的な見地から見れば比喩であり、科学的な言説ではありません。
 確かに科学は一般化し、普遍的な法則性を求めることが目的です。しかし、海綿というアナロジーによる一般化は無尽蔵に広がり、その上、最初の意味から違ってきてしまうのです。比喩的な言い回しがさも本物であるかのように独り歩きしてしまっています。
 そしてバシュラールはこのアナロジーを精神分析と比較しているのです。精神分析は自由連想法からも解るようにアナロジーを使っています。

アニミスム

 宝石にも雌雄がある、と考えられていた例を通してバシュラールはこう述べています。生物と結びつけたアナロジーにする傾向があり、そしてそれはアニミスムに由来していると。アニミスムとは万物を生命として考える、素朴な信仰です。例えば石や金属などにも命があるというような。
 そしてこのアニミスムの考えは十九世紀初頭においても続いているとバシュラールは指摘しています。ラヴォワジエは鉄の硫酸塩と象牙を一緒に蒸留したことが記されています。
 これがどうしてアニミスムの名残かというと象牙という生物に由来する成分を使っているからです。サージュという化学者は動物から取ったガラスと火性の区別する必要性を指摘しています。
 またバシュラールは挙げていませんが、ブラウン運動もアニミスムの現れだと言えると思います。微粒子*6不規則な動きをしますが、生命活動だとずっと思われていたのですから。
 バシュラールはこれを「アニミスムの誘惑」としてこれ以上、追求しようとはしません。なぜなら彼の目的は科学がなぜ誤謬に陥るのかを探り、科学的認識が誤りに陥った時「知的禁欲主義」を持てるようにすることだからです。
 しかし僕はなぜアニミスムの誘惑に陥ってしまったのかを考えました。ユングなら人間の持っている集合的無意識の作用だと言いそうですが、僕は人間の恐怖心の現れだと思っています。
 物理学は人間をつまるところタンパク質の塊であり、タンパク質は炭素化合物であり……という具合に、無機物に解体しようとします。だからといって物理学を非難するつもりはありません。むしろ、物理学にこそ人間の<自分探し>の欲求を満たしてくれると信じています。

*1 アラン・ソーカルの攻撃対象にこそならなかったものの、ミシェル・フーコーは毀誉褒貶が激しい。しかし、『監獄の誕生』においては十六世紀の刑罰の文献や感化院などの文献を参照している(ミシェル・フーコー『監獄の誕生』新潮社)。過去の文献から取りこぼしていったものを拾う点はバシュラールが本書で使用している手法と似ている。
*2 伊東俊太郎、村上陽一郎、広重徹『思想史のなかの科学』(平凡社)。もっとも、現代物理学でも最終的な決断を下すのは実在を示す直接的な証拠が見つかった時である。
*3 例えば『市民ケーン』の冒頭部では雷がなる。
*4 Wikipedia「宇宙線」参照のこと。
*5 巽孝之、荻野アンナ『人造美女は可能か』(慶応義塾大学出版局)拾い読み
*6 花粉ではなく、花粉から流出した微粒子である(Wikipedia「ブラウン運動にまつわる誤解」)


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