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対訳 ブレイク詩集―イギリス詩人選〈4〉 (岩波文庫)

詩を読む理由

 僕が詩を読むのは自分の創作に生かしたいからです。僕は散文の人間でして、詩的な情緒を生み出すことができません。いや、詩的な情緒とは何かがそもそも解りません。
 邪道かもしれませんが雰囲気で読んでいます。そしてその雰囲気を自分の創作の中で少しでも再現できればと思っています。
 また英詩は他の外国語に比べるといくぶんか解りますので、対訳形式の本を借りてきました。……といってもあまり見てませんけど(笑)

『無垢と経験の歌』から受けるウィリアム・ブレイクの印象

 はっきり言って苦手な詩人でした。原因ははっきりしてて、宗教を題材にしてるからです。以前、ジョン・ダンの詩集を読んだことがあるのですが、彼も宗教臭くて苦手でした。また『対訳 ブレイク詩集』の脚注を読むと、旧約聖書、新約聖書からの引用が多く、これも僕の戸惑いの一つです。これは宗教云々よりも僕が無教養なだけなのですが。

 強い宗教性は例えば下記の詩にも現れてきます。
 荒れた谷間を笛吹きつつ/楽しい悦びの歌を吹きつつ下りると/雲の上に一人の子供が見えた。その子は笑って私に言った。
 「子羊の歌を吹いてよ」/そこで私は心楽しく笛を吹いた。(後略)
 この笛吹き(Piper)は明言されていないものの、「荒れた谷間を笛吹きつつ」などの表現、「子羊の歌(a songs of a Lamb)」を吹いていることから羊飼いであると僕は思います*1。
 またLambは子羊ですが、迷える子羊とあるように言うまでもなく、キリスト教では重要な動物です。その出典は、『ルカによる福音書』第15章です。
 あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか 
 この他にも、マタイによる福音書などがあります。
 いずれにしても子羊とはキリスト教信者を象徴する動物です。しかもthe Lambではなくa Lambとあり、特定の子羊(=信者)を特別扱いしていないことを示唆しているのです。
 しかも「みんなが読めるように」「私の楽しい歌」を書きます。弟子たちによるイエス・キリストの言行録が新約聖書であり、<私>もまた子供に話した後、文字に起こすという行為と一致します。そしてこの羊飼い(と思しき人物)が書いた歌が無垢の歌に収録されているのです。
 しかもその直後に「羊飼い(The Shepherd)」という詩が書かれています。特にThe Shepherdとなった場合、本来の羊飼いという意味の他にイエス・キリストを指します*2。
 このことから僕はウィリアム・ブレイクの詩に宗教性を見出しました。特に
 慈悲は人間の心臓を持ち/憐憫は人間の顔/愛は神性なる人間の姿/平和は人間の衣装を持っているから/(中略)/すべてのものは人間の姿を愛さなければいけない/異教徒、トルコ人、ユダヤ教徒であろうとも
という詩はウィリアム・ブレイクの考えるキリスト教の理想であるとも解釈しました。『無垢の歌』というようににキリスト教の教義に対して、純粋無垢であるという印象を受けます。

経験の歌

 一方で『経験の歌』はかなり雰囲気が違っています。同じ「煙突掃除の少年」という詩でも『無垢の歌』には下記のくだりがあります。
みんなはとび跳ね、笑いながら緑の野原を駆けまわり/川で洗いきよめ、日を浴びて体が輝く
それから白い裸のまま、煤袋を置き去りにして/雲に乗り、風の中を遊んだ
これはトムの夢の中なのですが、「とても寒い朝だったけれど、トムは幸せで/暖かだった」とあるように明るい詩です。
 しかし「経験の歌」に収録されている「煙突掃除の少年」はとても暗い歌。
 ぼくは荒れ野にいても楽しく/冬の雪のなかで笑っていたので、両親はぼくに死の着物を着せ、/悲しみの歌をうたうようにしこんだのさ
 そしてぼくが楽しく踊り歌っているので/両親はぼくにひどいことをしたとは思わず/ぼくたちの惨めさで天国をつくっている/神さまや坊さまや王さまを崇めにいくのさ
 脚注には両親についての解説として「煙突掃除の親方夫婦ととっていいだろう」とあります。また煙突掃除は大変危険で、窒息死したり、まだ火が消えたばかりの煙突を掃除させられたり、掃除が遅いと下から火を焚いたりしていたのです*3。
 しかし雇い主は「教会に行って」います。どちらが救われると考えるべきかは煙突掃除の少年だと思いますけどね。
 また「ロンドン」でも煙突掃除の少年が出てきますが、こちらは教会の煙突掃除をしています。黒い教会とは脚注にもありますが、教会の精神的な堕落を表しています。
 このようにウィリアム・ブレイクは無垢の歌の後に、経験の歌を配置しています。そして教会のみならず当時の社会を批判しようとしたと僕は解釈しました。

試みとして

 長編詩、「アルビヨンの娘たちの幻覚」は架空の神話を作り上げようとした試み。創作神話としてはクトゥルフ神話が有名ですが、創作神話を作るときはこちらも参考になりそう。

テレザに

 また、聖書の知識がないのに『テルザに』という詩についてコメントするのは気が引けるのですが、あくまでも一つの感想として。
 「死すべき身より生まれたものは何であれ/生成の世界から立ち上がって自由になるためには/この世界とともに消滅しなければならない/そのとき、私は汝とどんな関わりがあろうか」。この最後の一文は、カナの婚宴というエピソードに由来しています*4。どういう話かといえば、ある結婚式に呼ばれたイエス・キリスト一行。しかし、この結婚式でイエスの母親はワインがなくなったという。母親がイエスにそのことを言うと、「何の関係がある?」と突っぱねます。しかし母親マリアは信者たちにイエスの言うことを何でも聞くよう言います。
 するとイエスは六つの樽に水を満たして、弟子たちに運ばせます。婚礼会場まで持って行くとあーら不思議、水がワインになってました、という話*5。
 途中で樽をすり替えたんじゃね? と言わなかったのはさすが大人の対応ですね! もしくは結婚式の余興で手品師を雇ったのか、と思ったとか?
 最初突っぱねていたのに、どういう心境の変化でイエスが協力的になったのか? 無教養の僕には解りませんが、汝とは文脈を見ると聖母マリアだと解ります。
 さて世界という訳されている言葉はthe Earthであり、大地という意味があるのは言うまでもありません。大地は生み出すものという意味で女性、特に多くの神話で母親と関係づけられています*5。そこからも自由になるのですからこの詩から死は平穏な地だというイメージが湧きます。
 仏教の死生観も似たような考えですが、結びつけるのは強引かと思います。

その他

 大江健三郎はウィリアム・ブレイクの詩を読み込んでいたらしいです。彼の小説にはウィリアム・ブレイクの詩を題材とした小説「新しい人よ目覚めよ」があります。これは未読なので読もうと思います。
 昔読んだSF小説に「虎よ、虎よ」というタイトルの本がありました。復讐譚ということだけは頭にあったので、調べてみると、アルフレッド・ベスターという人です。
 この二つは読んでみたいと思いました。
 一応、ウィリアム・ブレイクはロマン派の詩人に数えられているようです。ロマン派はジョン・キーツなどからも解るように*6科学批判、理性批判を行なっています*7。しかしウィリアム・ブレイクはむしろ、社会批判を感じました。

*1 現に「笛吹く牧神のファウヌス」という彫刻がルーヴル美術館に保管されている(ルーヴル美術館公式サイトより[日本語版]より
*2 マタイによる福音書10章。なお、wikisourseからマタイによる福音書の全文が読める。
*3 今年は、ヴィクトリア朝だ〜!「煙突少年」のお話
*4 松島正一による脚注(ウィリアム・ブレイク『対訳 ブレイク詩集』岩波書店)
*5 ヨハネによる福音書およびWikipedia「カナの婚宴
*6 宮崎雄行「解説」(ジョン・キーツ『キーツ詩集』岩波書店)
*7 村上陽一郎、広重徹、伊東俊太郎『思想史のなかの科学』(平凡社)