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ゲルマーニア (岩波文庫 青 408-1)

ゲルマーニアについて

 ゲルマーニアは語源としては「German」つまり、ドイツですが、今のドイツだけではなくローマ以北のドイツ、ポーランドなどかなり広範囲にわたって記録されています。むしろローマ以外の周辺民族のうち、従属しない民族をすべてゲルマーニアと読んでいたのです。
 当時のローマと交流があった部族としてケルト系とゲルマン系がいたのですが、ケルトはギリシャ時代から傭兵として雇用されていました*1。しかもマケドニアに影響され、紀元前400年には独自の金貨を流通させていました*2。
 ゲルマーニアにはケルト人も住んでいましたが、ケルト人以外も住んでいました。このケルト系以外の人々をゲルマン人と読んだのです。ゲルマーニアは野蛮とかいう意味だと思っていたのですが、ケルト語で「川向こう」、──ライン川の向こう──を意味します*3。

ローマ帝国について

 僕は古代ローマ帝国について教養が余りありません。キケロ、セネカ、プルタルコス、それからシーザーの『ガリア戦記』を読みましたが、楽しめたのはセネカと『ガリア戦記』くらい。ガリア戦記は素直に読み物として面白い。海外ではキケロが評価されてるらしいのですが、いまいちどの辺りが評価されているか、実感できないんですよね。
 ちなみに調べてみましたが、『哲学の慰め』のボエティウスと『告白』『神の国』などで知られるアウグスティヌスはタキトゥスよりももっと後です。

タキトゥスの頃のローマ

 さて、ローマ帝国はトラヤヌス帝の頃、最大領土となります。117年に地図が作られているのですが、イギリスの一部から北アフリカまで支配下においていました(クリックすると地図が表示されます。なお引用元はWikipedia)。タキトゥスの『ゲルマーニア』が書かれたのが98年のことですから、これよりは幾分小さかった可能性がありますが、これとほぼ同じ勢力図だったと推察できます。
 ゲルマーニアは117年に作られた地図を見る限り入っていないので、ローマにとっては未開の地でした。たびたび平定を試みようとしましたが、勇猛果敢に戦い、ローマ軍を打ち破ってきました。泉井久之助は「訳者序」*4において下記の解説をしています。
 ゲルマーニア──、その住族ゲルマーニーは、およそローマを受け付けないのである。大軍を整え、時には水軍を伴ってゲルマーニアの内奥に押し入って有効に作戦を展開しても、その要所ごとに打ち込まれた楔は直ちに投げ返され、嵌めた箍はその度にはち切れる。時には指揮者とともに三軍団が一時に全滅して軍団の馬じるしをすべて奪われたこともある。
 おまけに本文中には、ゲルマーニアの一派であるキンブリーの軍が北イタリアに侵入してきたとあります。タキトゥスの計算では、二百十年間、ゲルマーニーと戦っていることになります。
 かたや大国ローマ帝国、かたや辺境の蛮族……、これだけ長い期間を掛けても征服できないのはおかしい、というわけで、ゲルマーニーを調査することになったのです。そしてその報告書が今日に残っている『ゲルマーニア』というわけです。
 したがって極めて客観的、具体的に書かれていて、「かかる事柄は未知不詳のこととして、(中略)中有に残しておきたい」とあやふやな伝聞は保留しています。

ゲルマーニーの軍隊

 ゲルマーニーの軍隊についてタキトゥスは「全体的に考えるならば、軍の主力は歩兵にあると思われる」と描いています。ちょうど大和政権に従わなかったという点で、東北の蝦夷と似ています。しかし、日本の蝦夷は騎馬隊が主力だったのですが*5のですが、こちらは歩兵が主力です。ローマの重装歩兵に勝つために、ゲルマーニーも騎兵で電撃戦を使っていたと思っていたのですが、どうやら違っていたようです。

散兵戦か

 タキトゥスのゲルマーニアによると、ゲルマーニーの武装は下記の通りです。
 細い短い鉄の刃の手槍を携える。(中略)彼らが同じ一本のその槍を場合に応じて、あるいは接戦に、あるいは間隔戦に用いて、自在に戦っているほどである。(中略)歩兵はそのほかに投槍を投げ、各々その数本を携え、これを揮って無限の遠距離に飛ばし、みずからは裸体、あるいは単なる套衣sagulumの軽装である。
 ここからゲルマーニーが取った戦術は槍を投げて、逃走を繰り返すという散兵戦だったのではないかと思います。散兵戦とは四方八方から槍などを投げて、一つの軍団が散り散りになったところを叩く、という作戦です。
 実際、ローマの重装歩兵と真っ向から戦って勝てるはずがありません。ゲルマーニーは逃げやすいように、このような服装を選んだのでしょうか?

夜襲

 さて散兵戦を展開したというのは僕の勝手な憶測です。しかしゲルマーニーの一つの戦術として夜襲があったとタキトゥスは記しています。
 彼らは盾を黒くし、戦いに暗夜を選んで、幽霊のごとき軍隊の恐しさそのものと、その陰影によって敵に恐怖心を与えるのである。
 敵というのはおそらくローマ帝国のことでしょうが、武器の質が劣るゲルマーニーにとっては夜襲は当然とりうる選択肢の一つです。タキトゥスは他の箇所は淡々と記しているのに、上記で引用した箇所は恐怖心が顕になっている、と思うのは僕だけでしょうか。しかも「すべての戦闘において、第一に征服されるものは人の眼だからである」という警句めいた文言まで残しています。

リメス(Llimes)

 調べてみたんですけど、ゲルマン人の侵略を防ぐために、リメスという防塁を建設してるんです。ちょうど秦の始皇帝が北方の遊牧民族に備えて、万里の長城を建設したように、ローマ帝国はリメスを築いたのです。このリメスという言葉ですが、「境界」という意味で用いられていました。しかし、これが転じて、限界というLimitの語源や、「輪」という意味のrimという語源になったそうです。
 ちなみにこの頃は中国は後漢だったのですが、甘英という人がローマと国交を結ぼうとしています。

かなり細かな報告書

 タキトゥスの『ゲルマーニア』ですが、簡潔ながらもかなり立ち入ったところまで調べています。どういう武器で戦って、というものはもちろん、生活様式、意思決定、女性の立場など生活の中に入り込まなければ解らないところまで書かれています。ここで二つの疑問が湧いてきます:
1.どのように書いたのか?
 これについてはかなりの部分、解説されています。実地に赴かなくとも書けるとした上で、
 タキトゥスは執政官経験の顕要の地位を利用して政庁に集まる北方討伐と調査の報告を検し、居ながらにして北方の状況をつまびらかにして比較的自由に記述できる材料を引き出しうる便宜を有していた*6。
 つまり執政官時代の人脈を使って、生活様式まで書けたのです。
2.何のために?
 これはどのように書いたのか、とも関わってきます。当時、ゲルマーニーに対して手を焼いていました。その防衛対策の報告書を書いたんだとしたら、もっと兵の人数、地形、武器、軍隊の指揮系統などに特化して書くでしょう。加えて、各地にスパイでも送り込んで書いた可能性も出てきます。
 またローマ帝国の偉大さを周辺諸国に知らしめるために書かれたのかもしれません。しかしそれなら、「帝国の運命は切迫し」という文言は納得がいきません。加えて、ゲルマーニアを破った記録に彩らてるのではなく、極めて正確さに気をつけて書いています。Wikipedia*7には、
ローマ帝国の外縁に住むゲルマニア人(ゲルマン人)についてのタキトゥスの記述はいろいろな偏見の入り混じったものであった。タキトゥスは、彼の目には退廃していると映っていた当時のローマ人と比べて、ゲルマニア人の性質を「高貴な野蛮人」だという見方で伝えた。
 とローマ批判の意図があったとしています。確かにローマ国内で金融は問題視されていました。それに対し、ゲルマーニーは金融はおろか原始的な物々交換を行なっている、と紹介されています。
 しかし余りに全般的すぎ、後世の目から見てるせいかもしれませんが、批判に欠けているように感じました。この全般的、というのが目的を分からなくしてるんですよ。

タキトゥスの不安

 泉井さんは、「ローマ帝国の崩壊に対する憂いはタキトゥスが常に抱いていたところである」と述べています*8。「今や帝国の運命は切迫し、運命〔泉井注:の女神〕なにものといえども、敵同士における不和にもまして、大いなるものをわれわれに齎すことができないとすれば……」など確かに切迫感が読み取れます。
 しかし、五賢帝といわれたトラヤヌスの治世。ローマ帝国がまだ存続するのは、我々が歴史を「知っている」からだとしても、軍事面以外に何か不安要素でもあったんでしょうか。経済的に、とか天候が、とか。浅学な僕には解りませんが、暇があったら調べてみようかと。

*1 Wikipedia「ケルト人
*2 同上
*3 高橋容子「面白ゲルマン古代史(1)」(『ドイツニュースダイジェスト1997年6月28日掲載 on-linel)
*4 泉井久之助「訳者序」(タキトゥス『ゲルマーニア』岩波書店) 
*5 関幸彦『武士の誕生』(講談社)および下向井龍彦『武士の成長と院政』(講談社)参照。むしろ同化政策にすぐ応じた点、主力が騎兵だという点を踏まえると、ケルトに近いという印象を受ける。
*6 Wikipedia「ゲルマニア(書物)
*7 泉井久之助「タキトゥスと『ゲルマーニア』」(タキトゥス『ゲルマーニア』岩波書店)
*8 タキトゥス『ゲルマーニア』(岩波書店)第三三章訳注(二)など。