ブログネタ
最近読んだ本 に参加中!
ホフマン短篇集 (岩波文庫)

概要・はじめに

 この本を借りた動機はフロイトが分析している『砂男』の元となった本を読みたかったからと、幻想文学に関心があったからです。
 特にホフマンは推理小説のような幻想小説を書いていて、その点でも僕の興味をそそります。というのも文芸同人誌では幻想小説を、ホームページでは推理小説をそれぞれ発表していて何とかして架け橋となるような作品を書きたいと思っているからです。

推理小説のような幻想小説とは

 推理小説と幻想小説は一見すると相反するように思います。しかし、謎とその(論理的な)解決という大きな枠組はホフマンにも見てとれます。
 例えば「クレスペル顧問官」という小説は、クレスペルという人物とアントニエの関わりについての謎が最終的に解き明かされるという枠組みを持っています。逆に幻想的な部分はどこかと聞かれると、最後の場面です。
 突然あたりに目のくらむような光が射しこみ、Bとアントニエがかたく抱き合い、至福のまなざしでたがいを見つめ合っている姿が見えた。アントニエが歌っているわけではなく、Bがピアノを弾いているわけでもないのに、さきほどの歌と伴奏とがなおも高らかに聴こえる。クレスペルは眩暈をおぼえた。とたんに二人の姿も楽〔原文ママ〕の音もかき消えた。
 そしてこれは夢だと解るのですが、クレスペルはアントニエの「冷たい骸」を抱えているのです。
 夢と現実の境をわざと曖昧にしているように僕は感じました。
 また「G街のジェズイット教会」も、ジェズイット教会で彫刻を作ってたベルヒルトが突然、歴史画を辞め宗教画に転身します。そのときベルヒルトは自ら進んで歴史画を辞めたというよりは止むに止まれず宗教画家に身を落としたのです。ベルヒルトは<私>にこう語っています。
たかだか祭壇を語るヘボ絵のことじゃないか。──むしろこちら〔夜空〕をごらんなさい、これこそ誠実な絵ではないですか。規則とはなんて素晴らしいものだろう! ──すべての線が特定の目的に従い、あらかじめ考えぬいた効果を生み出す。
 神が作った夜空を芸術作品としてベルヒルト見ていて、それに比べたら自分の書いている宗教画など大したことはないと言っています。

科学

 僕が注目したのはその後の台詞。「計られたものだけが人間にかなうものであり、量ることのできないものはあくですよ。(中略)神にしろ、悪魔にしろひとえに計量できる規則によって表現させるためではなかったのでしょうか。計測ができ(中略)とどのつまり人間のために有益でというのですね」。一六世紀からの科学は定量的に物事を把握するという考えが主流になります*1。また市民革命を経ると、科学は知的好奇心の対象から社会的な要請が強くなります*2。人間中心の科学──人文科学が誕生したのもこの頃でした*3。
 またヴァルターは典型的な機械論者として描かれていて、この考えもまたホフマンが生きたころの科学観としては主流でした*4。ヴァルターは、ベルヒルトをペンキ屋などとさんざん罵るのですが、彼は最後に書きかけの書き上げて死にます。ヴァルターは<私>へ手紙でベルヒルトの死を報せてくるのですが、そこにはこう書かれていました。
 中絶していた祭壇画にとりくんで、見事に仕上げたのですね。あの絵はいま別の場所に掲げられていて人々の賛嘆の的になっています。
 絵の価値は言うまでもなく科学では計れません。従ってあえて科学の対象外で、しかも賛嘆の的とすることで科学以外の価値を見出そうとしたと考えられます。
 なぜホフマンはベルヒルトを「殺した」のでしょうか? 絵を書き上げて死ぬということは、オカルティックな言い方をすれば絵に魂が吸い取られたことを意味します。そして絵に「魂」が宿り、賛嘆させるのです。

心の問題

 フロイトは「砂男」について子供時代に体験した「砂男」のエピソードが大人になっても無意識で生きている、そして「砂男」は死の恐怖であるという分析を行なっています*5。

クレスペル顧問官における「家」

 この砂男以外にも心を象徴させるような場面がいくつか出てきます。例えば「クレスペル顧問官」の家は、「外見はいかにも奇妙」であり、「窓という窓がてんでバラバラで一つとして同じ形のものがないので」すが「一歩なかに入ると独特の快適さがみなぎっている」とあります。
 そしてクレスペルの言動は下記のように描写されています。
「あの楽譜の書きなぐり屋ね。あんな野郎は黒い翼を持った悪魔の手で千仞の谷底ふかく逆おとしに落とされるがいい!」
 とおもうと今度は、はずんだ声で熱っぽく、「あの人は天使ですとも。ひびきと調べそのものです。歌の光明であり、明星というものです」などという。
 つまりクレスペルの家と言動は両方とも一貫性のなさという点で一致しています。
 言動は心そのものではありませんが、心をなにがしかの形で反映している以上、クレスペルの心にも一貫性がないと読みとれるのです。

中を知る

 さて、クレスペルはアントニエを住まわせて歌わせています。つまり居心地がよい空間になっています。これは単に家としての住み心地ではなく、クレスペルの心にとっても拠り所となっています。つまりアントニエの歌声はクレスペルの中と外を結ぶ働きをしているのです。
 クレスペルもかつてはヴァイオリンを作っては弾いていたと語られています。「昔の名人が作ったヴァイオリンが見つかったとしますと、どんな高値でも買いとり」、「内部のつくりを調べるために」「ばらばらに分解する」と述べています。
 ここからものの内部を知ろうとするという姿勢が伺えます。しかし、ヴァイオリンの作りはどれも変わらないことが描かれています。
 なぜこのエピソードを引いたかといえば、美しい音色を出すヴァイオリンを解体して調べるクレスペルと、何か言い知れぬ魅力のある人の過去を探る<私>は、「内部のつくり」を知りたいという点において同じです。人の心を知る方法の一つとしてフロイトが試みたように過去を探るという方法があります。
 フロイトによって人の心が科学の対象になってそれが探偵小説の源泉となった、と笠井潔は語っています*6。この小説はフロイトが精神分析を考える少し前になりますが、人の心を知ろうとする姿勢が伺えます。
 そしてそれが「心理学」の幕開けだということも。

一貫性がないということ

 さて、科学は一貫した法則を見つけだすことです。少なくともホフマンの生きた時代の科学観はそうでした。
 しかし、クレスペルは一貫した行動をとっていません。また「〔高価なヴァイオリン〕に予期していた特色がないとわかるとばらばらにしたまま大きな木箱に投げ込んでしまう」と語られています。後者はクレスペルが落胆した結果とも解釈できますが、同一性の否定と解釈することもできます。
 高価なヴァイオリンと自作のヴァイオリンが同じ「内部のつくり」だと解ると木箱に入れ、目を背けてしまうのですから。

近代都市と同一性

 近代は画一化されて、外見と内面が一致しない時代になったとベンヤミン*7は分析しています。生活空間と生産活動を行なう場が違ってきた、というのです。

アイデンティティ

 土地に縛られた農奴制なら、毎日顔を合わせている上に生活する場所も同じでした。従って外見と内面は強く結びついていたのです。農奴制はプライバシーがない代わりにアイデンティティは保証されていました。
 市民革命で近代に入ると、その結びつきは弱くなってしまいます。「隅の窓」という作品からはよく窺えます。この作品は他の五作品と違い、ただ従兄と人間観察であれこれ述べているだけの話ですが、これも内面と外見が切り離されたことで成立していると言えるのです。

見る/見られる

 もう一つミシェル・フーコーによると十七世紀、十八世紀に起きた変化を指摘しています。「誰かに見られているかもしれない」という意識を国家が作り上げたのです*8。初めは本当に「王のポリス」を街に放って、監視していたのですが、それも次第に必要なくなります。もちろんそれは結果論にすぎません。
 ホフマンの「隅の窓」は街の人を観察する話です。しかし往来の人々を人知れず眺めるという行為からは近代以降、都市がどういう特徴を持っていたかが浮かび上がってくるように思います。 


*1 伊東俊太郎、広重徹、村上陽一郎『思想史のなかの科学』(平凡社)
*2 同書
*3 ミシェル・フーコー『言葉と物』(新潮社)
*4 伊東俊太郎、広重徹、村上陽一郎『思想史のなかの科学』(平凡社)
*5 ジグムント・フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』(光文社)
*6 笠井潔『探偵小説と二○世紀精神』(だったはず。違ってたらすみません)
*7 ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論(第一巻)』(岩波書店)
*8 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(新潮社)


にほんブログ村 小説ブログ 小説読書感想へ