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アウグスティヌス―“私”のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)

概要

 アウグスティヌスを現代思想(と現象学)の観点から読み解くとどうなるのだろうか。とりわけ自我、他者、顔という概念に、あるいは精神分析の〈不気味なもの〉を参照しつつアウグスティヌスの『告白』を読むとどうなるのだろうか。
 NHK「シリーズ 哲学のエッセンス」は独自の視点で切り込んでいって面白いんですよね。かなり独自の視点だったり、本当に局所的*1なものもあり、注意しなくてはなりません。恐らくは『告白』を読んでいることが前提条件であるような気がします。
 といっても僕はアウグスティヌスは『告白』しか読んでないんですけどね。まぁ『神の国』、『三位一体論』などはキリスト教に興味が湧いたら読もうかと。正直言ってアウグストゥスは飽きてきてますし、アウグスティヌスそのものより、アウグスティヌスの著作が後世にどう影響を及ぼしたかの方が興味がありますし。

鏡の中

 富松さんは愛の讃歌を引用しています。これは「コリント信徒への手紙」の一節に出てくる文章なのですが、
 わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくてもその時には、はっきりと知られているように、はっきりと知るようになる。
 という文言です。
 そのときとはキリストが復活、再臨し、神の国が到来したときです。神と「顔と顔を合わせて見ること」になり、わたしたちがその一部しか知らないものとは神です。神というとオカルティズムになると思われるかもしれませんが、万物の始まりと置き換えて僕は解釈しています。
 この僕が考える万物の始まりという二重の意味を含みます。つまり、はやぶさが今、探査に向かっていますが、宇宙の始まり。事実、旧約聖書創世記を始めとする各地の創世神話がどうして誕生したかといえば、私たちの起源にまつわる物語です。一方、例えば宇宙の始まり、姓名の誕生なんかも私たちの起源にまつわる物語です。これはどちらかと言うと人類一般の始まりです。

私のはじまり

 ここで大事なのは二つ目の意味です。「万物の始まり」は文字通り「〈私〉のはじまり」。アウグスティヌスが前半部で語っていることは「自分はどこからこの世にやってきたのか」*2という一節から解るようにそこなんです。この「鏡におぼろに映ったもの」ですが、ラテン語の原文ではper speculum in aenigmateであり、「鏡を通して、謎において」という訳になります。ラテン語の辞書で調べてみましたが*3、speculumが「鏡」という意味、aenigmateは暗号機「enigma」の語源となった言葉で、「謎」という意味になります。
 何が謎なんでしょうか? この二つのうちいずれも「解っている」のは、一部分だと語ります。中には自分のことは自分が一番分かっていると自信たっぷりにいう人がいるかもしれません。しかし、自分の声をテープレコーダーにとって再生してみると違和感があります。また鏡を見ないと、自分が今どんな顔をしているのかも解りません。
 たとえば『アウグスティヌス』で富松さんが例示しているように、フロイトは『不気味なもの』の中で自分の体験を書いています。
 寝台車の旅での途中、隣室と共有のドアから見知らぬ老人がフロイトの部屋に入ってきてしまった。注意してやろうと立ち上がった瞬間、フロイトは呆然とする。その老人はドアガラスに映った自分自身だったのだ。〔フロイトはこう振り返っている〕「私はこの現象が非常に不愉快なものであったことを覚えている」
 このように自分が一番身近であり、かつ最も謎めいた存在だと僕は考えています。もっともこれは富松さん始め、先代の哲学者、それこそアウグスティヌスからフロイト、ラカンに至るまで挑んできたテーマなのですが、富松さんはこの「私」とは何かを軸に据え「鏡の比喩」をもとに『告白』を読み解いているのです。
 私とは何かを知ろうとしたとたん、自分で自分が分からなくなってしまう。知ろうとする私と知られるべき知られるべき私とが、どこか微妙にずれてしまう。埋めようのないこの隙間からおぼろげに垣間見られるもの、そのことが鏡の比喩で神の顔と言われているものなのだろうか。
 したがって富松さんは『告白』を〈私〉のはじまりをめぐる書と考えています。

汝自身を知れ

 ところでアウグスティヌスが生まれる遥か以前の古代ギリシャにも汝自身を知れという言葉があります。これはデルフォイの神殿に刻まれていて、 γνῶθι σεαυτόνというそうです。古代ギリシャ語は全く解らないのですが、英訳はknow thyself*4であり、thyはyouの古語です。
 そしてこの汝自身を知れという格言も時代とともに変化します。プラトンはもともとの「身の程をわきまえよ」という意味に加え、鏡の比喩を用いています。富松さんは下記のようにプラトンを解説します。
 人間ではなく、眼に対して「汝自身を見よ」と言っているのだとしたらどうだろうか。眼は自分で自分をじかに見ることはできない。したがって自分で自分自身を見るためには、自分を映しだしてくれる鏡のようなものを見るしかないだろう。しかし、鏡は鏡であって眼そのものではない。
 この辺り、かなりラカンに影響されていると思うのですが、その読解こそ僕自身もラカンの影響が強い証明でもあるのです。つまり誰かの文章を読んで、あるいは他人の性格を評することは何らかの形で自分を見ているのです。

二人の自己探求

 ソクラテスは、より厳密に言えばプラトンの描くソクラテスは、問答を通して自己探求に重点を置いていました。つまり自分がいかに知らないかを知ることこそが哲学(学問)のあり方だと説いているのです。そういう面ではプラトンもアウグスティヌスも自分には知らないことがたくさんあるという、問いのあり方は似ています。
 しかし、この二人の関心事は大きく違っているのです。プラトンは〈私〉が善をなすにはどうしたらいいのか、という問題を扱っていて、関心は共同体に向いています。一方、アウグスティヌスは〈私〉はどこからやってきたのか、どこに向かっていくのかという問題に向いていて、アウグスティヌス自身に向いています。
 アウグスティヌスは帝政ローマの末期に産まれたのですが、その頃はキリスト教が栄え始める一方、西ゴート族の侵略、マニ教やドゥナティス派をめぐる問題などで内憂外患が絶えませんでした。
 こうした動乱は個人の心にも大きな変化をもたらします。アイルランドの歴史学者、ピーター・ブラウンやフランスの歴史学者、ヴェルナンによれば「コギト・エルゴ・スム〈我思う、ゆえに我あり〉は〔古代〕ギリシャ人にとって何の意味も持っていない」というように、独自の内面世界を持った個人の登場は一七○年くらいからというのです。僕は登場してきたのではなく、関心事が個人の内面に向き始めた時期だと思います。
 社会の中に「個人」があるのですが、社会が混乱すると「個人」の占める割合が相対的に増えるのだと僕は考えます*5。とはいえヴェルナンの主張を見ていくことにしましょう。ヴェルナンは三つに分かれるのではないかといいます。
1.ホメロスなどの他の皆とは違った英雄、
2.「私は学校に行く」「私は勉強をする」など行動する主体、あるいは「私は甘いと感じた」などの知覚する主体(フランス語のsujet)、
3.他人からは覗けない自我。

同じ

 同一性の問題……、平たく言えば「同じである」とはどういうことかもまたフランス現代思想の関心事です*6。同一性を考えるにあたっては差異に注目するべきだとドゥルーズは言います*7。
 ところで、アウグスティヌスは『三位一体』という論考を書いており、これは聖霊、キリスト、父の三者が実は一体だったという考えです。というのは創造主は神一人であり、それ以外の神がいたらキリスト教として成り立たなくなってしまうのです。
 〈私〉もまた一であると同時に多であると富松さんは指摘しています。例えば一人の人間に対して好きだけど嫌い、という経験はあるかと思います。さまざまな思いが同時に沸き起こるのですが、それを感じているのは〈私〉です。
 また似ているというのも同じように、同一性を前提としています。しかし、そこには本物/亜流という素朴な対立の他に馴染み/珍奇という二項対立が含まれています。例えばje te veuxやcogito ergo sum、mement moriなんかは「英語に似た言語」だと映ると思います。それは英語のほうがフランス語やラテン語と比べて馴染みが深いからです。
 自と他についても似たようなことが言えるのです。例えば10年前の自分と今の自分は全く違い、そういう意味では「他人」です。どちらがオリジナルか、どちらか馴染み深いかなんて考えなくてもいいのですが、普段の暮らしでは自明のこととして受け入れています。
 また他者との出会いは〈私〉との差異を浮き彫りにし、〈私〉の内面世界が独自なものだと意識します。
 ではどうやって10年前の私と今の私が同じだと解るのでしょう。ここで最初の神の存在が重要となってくるのです。神というのは母親や父親とは違い、特別な他者です。

特別な他者

 特別な他者とはどういうことでしょうか。それは神は全知であり〈私〉のことも全て知っているという前提が重要です。自分を俯瞰的・客観的に見る、自己意識を推し進めていくと〈神〉という考え方に行き着くのでしょう。また『告白』には自伝や伝記的な要素も含んでいます
 しかし、単に『告白』は「自伝」や自己意識についての話だけではない、と富松さんは指摘しています。単に自伝だけなら淡々と過去を時系列的に記述するだけですし、自己意識だけなら、自分の生い立ちを引き合いに出さなくても語れます。
 つまり過去の〈私〉を現在の〈私〉の目で語るという二重の時間が含まれているのです。過去はもうない、とアウグスティヌスは時間について語ってるのですが、その考えにいたったのも過去にはもう戻れないという自明のことから導き出されていると僕は思うのです。
 

*1 例えば入不二基義『ウィトゲンシュタイン』(日本放送出版協会)は後期ウィトゲンシュタインの言語における私的領域にのみ注目して書いている。
*2 アウグスティヌス『告白(I)』(中央公論新社)
*3 Google翻訳(2015年1月16日参照)
*4 Wikipedia「汝自身を知れ
*5 内面の新しい発見は脳が根本的に、つまり大脳新皮質の形成などハードウェアのレベルで、変化しないと起こりえないと考えている。
*6 例えばドゥルーズが『差異と反復』で論じている。またデリダも差延という概念を使っている。
*7 ジル・ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)


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