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トマス・アクィナス 『神学大全』 (講談社選書メチエ)

概要

 まず「入門書」という位置づけですが、ある程度哲学の知識というか用語が解っていないと読めません。カントの用語「実践理性」とか注釈なしで出てきますし。なので高校で倫理の科目を取ってたか、あるいは大学の教養課程で哲学を履修している人が目安だと思います。
 内容は神学大全の書かれた背景、神の存在証明、人間の存在論、幸福論、共通善の問題を取り扱っています。

神学大全とは?

 トマス・アクィナスは中世の哲学者で、日本で言えば親鸞や道元と同時代に生きた人です。トマス・アクィナスの主著に「神学大全」があります。ではこの本はどのような内容なのでしょうか? トマス・アクィナスは新プラトン主義とアリストテレス哲学*1を結びつけた人です。

トマス・アクィナスの試み

 キリスト教を信仰に加え、神学として学問まで高めようとしました。その試みがなされているのが「神学大全」です*2。トマス・アクィナスが「神学大全」で試みたことは「聖書の補足、付加(中略)ではなく、聖書を著者(auctor)たる神の意図に忠実に読むための学びである」、つまり聖書という文献学の方法論を提示し、神を感じることこそがトマス・アクィナスの最終目的なのです。
 すなわちトマス・アクィナスは『神の視点をもとに』『神を根拠として』(sub rstione Dei)と述べていますが、これは形而上学の革命であったのです。稲垣良典は『トマス・アクィナス』*3でマウラーの説を紹介しつつこう述べています。
 ここ〔マウラーの本〕が「形而上学における革命というのは、形而上学的探求が行なわれる場を、それまでのアリストテレス主義者の「実体」や新プラトン主義者の「形相」ないし「本質」から、最高の現実態ないし完全性としての「存在」へと転換させたことであ(中略)った。
 つまりこれまでのギリシャ哲学はそもそもの原因(第一原因*4)を探ろうとしていましたが、言うまでもなくそこにキリスト教の神という概念はありませんでした。

稲垣良典の試み

 第一原因にキリスト教の神を持ち込んだのがトマス・アクィナスです。稲垣良典はこう言う問題意識をもとにトマス・アクィナスを読んでいます。
 「存在」を「知覚される」と同一視することの誤りは言うまでもないとして、「存在」を単なる措定(position)、すべての「ある」を捨象した後に残る空虚な「ある」と同一視する誤りから脱却しなければいけない
 目の前にペンがあるから「存在」するというジョージ・バークリー*5や自我があるから<私>がいる、と考えるハイデガー*6ではなく、「ある」とは神と呼ばれる超自然的なもの、人智を超えた根源的な愛によって捉えるべきだと稲垣良典は考えているのです。
 どうしてこのような問題意識を抱えているんでしょう? 共通善という概念の復権を試みていることからも解りますが、科学主義・資本主義・物質主義への批判だと思います。そこに宗教についての神を復権させることで再び利己的な社会に警鐘を鳴らす目的があるのだと僕は思います。

神の存在証明

 トマス・アクィナスは神の存在証明をしていなかった、というのが稲垣さんの説です。確かに五つの道で神の存在証明を試みています。つまり:
(1)明らかに「何か」が動いています。例えば時間なんかがそうですよね。
(2)それを動かすには何らかの原因が必要です。そのまた原因が必要で……、という風に考えると、そもそもの原因を考えざるを得なくなります。アリストテレスの哲学で言えば第一原因となります
(3)偶然それが動いたのかそれとも必然的に動いたのかという問題が生じています。大正の哲学者、九鬼周造はハイデガーに師事していますが、人間の小さな目から見れば、偶然に見えても角度を変えれば必然となる*7と論じています。
(4)偶然性を完全に支配している
(5)それらは完全に秩序だって動いている。
 つまり明白な経験的事実から出発し、完全な知性が介在している、というのが一般的な見解です。しかし、トマス・アクィナスは厳密に神の存在証明はしていないし、する気もなかったのではないか、と述べています。
 しかし五つの道どの一つをとっても「それゆえに神は存在する」あるいは「このように神が存在することが証明された」と述べられていない。結びはすべて「これが万人が神と理解しているものである」「これは万人は神と名づけている」「これを万人は神と呼んでいる」「これをわれわれは神と呼んでいる」という風に、論証の結論にはふさわしくない曖昧な言葉である。
  トマス・アクィナスは何を問おうとしていたのでしょうか。経験と理性に裏打された知的探求心は神と呼ばれる存在に必然的に到達すると言おうとした、と稲垣良典は分析しています。そもそもトマス・アクィナスはアリストテレス哲学に古くから親しんでいて*8、『形而上学』*9の冒頭の一節の影響があると思います。

否定神学

 神は全知全能である、という言い回しを肯定神学といいます。対してトマス・アクィナスは否定神学という方法を取っています。
 恩恵の啓示によっても、われわれはこの世の生においては神が「何であるか」を認識することはなく、したがっていわば知られざるまま神に結ばれるにとどまる。
 肯定神学は神とは何かと考えられ、神は人間によって定義できるものと考えられています。しかし人間には捉えられないからこそ神と呼ばれると否定神学では考えています。
 かたや、人間の真の幸福は神と一体化することだとトマス・アクィナスは言います。この体系的な矛盾を彼は解決していないのです。

人間とは何か

 さて、イエス・キリストの教義では神様は一人です。なのにイエス・キリストと父親と受胎告知をした聖霊の三人が神として登場します。後から後から話を継ぎ足して語っていったせいなのかは解りませんが、辻褄が合わなくなります。
 そこでアウグスティヌスは強引な解釈をするのです。イエス・キリストと聖なる父と聖霊は一緒の存在で、役割ごとに姿を変えてたんだよ*10、と。これを三位一体論と言い、トマス・アクィナスの存在論を考える上で重要なものとなってくるのです。

近代の存在論

 近代の存在論は〈私〉の認識は感覚から始まる、という命題と〈私〉は知性によって存在を初めて捉えうる、という2つの自明なことから出発しています。つまり〈私〉が「ある」と認めるのは〈私〉の感覚によってで、それ以外は推論しているにすぎません。
 例えば机の裏側は見えませんが、過去の経験をもとに推論しているにすぎないのです。ところがこの唯物的な存在論では目に見えない心の問題や社会的な問題の考察は不可能である、と稲垣は指摘しています。僕の目に見えないものは存在しないんじゃないの? って思ってしまう僕にとってはこの辺りイマイチぴんとこないんですが。
 ともあれトマス・アクィナスの論を見ていきましょう。
 キリスト教によると人間はあらかじめ原罪という罪があり、それから救うためにイエス・キリストが磔刑に処されたという教えが根本的な教義となっています。そしてそれを信じることができるのは、聖霊の賜物だとなっています。なら、聖霊とキリストの関係を説いた三位一体論こそ救いの概念を正しく理解するに当たって必要なものです。

共通善

 アウグスティヌスは自己省察を通して悪は善の欠如が原因だったと述べます*11。またボエティウスも『哲学の慰め』で「もし神が存在するなら悪はどこからくるのか。だがもし存在しないなら善はどこからくるのか」と述べています。この二人は神は全知全能である=神は虚無しかできない、すなわち悪は虚無であるという結論に至っています。
 トマス・アクィナスは、
 神と自然(中略)は全体においてあらゆるより善いものを作り出す。したがってもし神が何らかの悪も存在することも許容しなかったならば、多くのより善いものが取り去られてしまう
 と述べ、悪は善をなす時に付随してしまうという説を展開しているのです。この辺り、もし神が全能なら悪を取り除いて全行為をなすことくらいは簡単のような気がしますが。

生きる目的としての善

 さてギリシャ哲学ではプラトンにせよアリストテレスにせよ、善く生きることが目的だったのです。トマス・アクィナスはこれを受けつぎ、善きもの、善、望ましさの根源であるとしてこれを幸福と定義しています。
 さて、アリストテレスは自然現象に目的があると言いましたが、ニュートン物理学は数学的・力学的に説明します*12。これは単に自然現象の記述にとどまった話ではなく、「人間はもはや自らを超える何らかの価値(善、目的)というものを認めず、価値とは人間にとって大事なもの、役に立つもの、快いもののことだと考えるようになった」とあるように、人間の価値観に踏み込んだ内容となっているのです。
 トマス・アクィナスはこのような価値観ではなく、神は何のためにそれを作ったのかという存在する目的を考えます。そしてこれは人間の意思決定とは何かも視野に入れて考えなければならないと稲垣は指摘しています。
 人間の自由、あるいは自己決定を最高のものとして絶対視するか、それとも人間の自由はより高い規範に従属すべきであると考えるかという違いとして説明することもできるだろう。
 人間は自然の秩序を乱すべきでないという人があるかもしれませんが、それは神を意識してのことではなく自分にとって将来的に不都合が生じるからだと思います。

共通善とは

 共通善とは日本において余り知られていない思想です。トマス・アクィナスはアリストテレスの「人間は政治的な生き物である」*13という一節を踏まえて「人間は人間にとって友である」と述べています。これはトマス・ホッブズの「万人の万人に対する戦い」とは正反対の考え方ですね。
 アウグスティヌスも人間が社会を形成するのは自然の成り行きだと考えていました。しかし、これは支配欲を持った結果だと考えたのです。
 しかし、国家全体が、国民全体が共同して善を追求するなら「被支配者は奴隷としてではなく(中略)完全な共同体」になる、とトマス・アクィナスは言います。これって危険なことなんですよね。一歩間違えばファシズム化してしまいますので。
 
*1 このアリストテレス哲学はイブン=スィーナーなどのイスラム教徒を経由して入ってきた(稲垣良典「解説」、トマス・アクィナス『在るものと本質について』知泉書館)
*2 トマス・アクィナス『神学大全I』(中央公論)には神学の範囲、神学の方法論など規定されている。
*3 稲垣良典『トマス・アクィナス』(清水書院)
*4 アリストテレスが『形而上学』で使っている用語である(アリストテレス『形而上学(上)』岩波書店)
*5 ジョージ・バークリー『視覚新論』(勁草書房)
*6 ハイデガー『存在と時間(二)』(岩波書店)
*7 九鬼周造『偶然性の問題』(岩波書店)
*8 稲垣良典『トマス・アクィナス』(講談社)
*9 アリストテレス『形而上学(上)』岩波書店
*10 アウグスティヌス『三位一体論』(東京大学出版会)
*11 アウグスティヌス『告白(I)』(中央公論新社)
*12 和田純夫『プリンキピアを読む』(講談社)
*13 アリストテレス『政治学』(岩波書店)


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