ブログネタ
最近読んだ本 に参加中!
絶望 (光文社古典新訳文庫)

概要

 『ロリータ』で有名な──むしろロリータという言葉がひとり歩きしてる感じすらありますが、テクストというのはそういうものなのです。例えば太宰治は「人間失格」がひとり歩きして、暗いイメージとして語られてますが、「畜犬談」などのユーモアあふれる作品は無視されてしまってます──ウラジミール・ナボコフの初期の作品です。
 貝澤さんは『カメラ・オブスクーラ』に関連付けて、「見る/見られる」、「語ることの限界」というテーマで解説を書いていますが*1、僕はむしろナボコフの特徴というか面白さ──ああ、読者よ、僕の表現力の乏しさをお許し願いたい、ナボコフの企みを語るには僕では力不足なのだ──過剰にまで語られる──しかも、ただ語るだけではなく読者を意識して語る<語り手>、それこそ太宰が「人間失格」や「走れメロス」で試みたような──意識の仕方にあると思うのです。

あらすじ

 この作品の筋を語るのは難しい。と言っても、現代文学のように、──いやナボコフも現代文学だから安部公房の『箱男』みたいに、というべきでしょうか──ちなみに安部公房といえば高校時代に「赤い繭」を、大学時代に『壁』、『砂の女』を、数か月前に『カンガルーノート』と『燃えつきた地図』、『人間そっくり』を読んだのだが──、あるいはリョサの『緑の家』のように──ちなみに『緑の家』の書評は自慢できることですがグーグルの検索結果で上位に表示されます。法螺だと思うのなら検索してください──話が錯綜しているわけではありません。
 むしろ、話の筋としては古典ミステリにありがちな──余談ながらホームズが大好きで子供の頃から愛読しているのですが──双子トリックを用いてます。つまり死体が入れ替わる話であり、これはミステリとしてはもう陳腐化されています。
 自分そっくりだと語り手は信じている──おお、読者よ、「信じている」と今書きましたがここにナボコフの企みがあるのですが──浮浪者フェリックスを見つけ、自分の身代わりとなって死んで、保険金をだまし取ろうとします。そしてほとぼりが冷めた頃、奥さんのリーダと落ち合うという計画を立てるのです。
 話自体としてはこのように単純なのですが、それにも拘らず『絶望』というテクストは絶望的に筋を語るのを拒んでいるかのように思えます。ナボコフ──いや、 ナボコフの小説に登場する<語り手>の企みは先述したように、戦術的に自分を語っています。粗筋を語って結論を急ぐことはそのような饒舌な自分語りという彼らの企みを酌まずに『絶望』を読むことになります。

メタフィクション

 この小説はメタフィクションを取っていることは言うまでもありません。<ぼく>が完全犯罪の計画を立て、その経過を小説として出版した。そしてその小説が『絶望』というこのテクストだ、という手法もメタフィクションなのですが、その他にもメタフィクションが使われています。

そもそもメタフィクションとは

 そもそもメタフィクションとは、小説の枠組みを超えた小説です。モダニズム小説では、ブルトンなどに影響されたシュールレアリズム文学でもそうなんですが、作中人物は小説の中の世界しか認識できませんでした。つまり、読者──や作者、編集者──の存在、そして今、小説の中にいる登場人物だということ、そして今、作中人物の置かれている事件が小説として描かれていること──つまり小説の外の情報──などは意識していなかったのです。
 これは小説は我々と同じ世界観を共有するべきである。我々が例え小説の登場人物だとしても、それを意識できないのと同じように作中人物たちも振る舞わなければいけない、という自然主義の文学観に基づいています。
 しかしメタフィクションはそうではありません。例えば、ディクスン・カーの『三つの棺』*2では「われわれは推理小説の中にいる人物であり、そうでないふりをして読者たちをバカにするわけにはいかない。手のこんだ口実をつくり出して、推理小説の論議に引きずりこむのはやめて、書物の中の人物たちにできる、最も立派な研究を率直に誇ろうじゃないか」と語っています。つまり登場人物が作中人物だと意識した発言をしているのです。これが典型的なメタフィクションです。
 またシャーロック・ホームズは、『四つの署名』でワトソンの書いた小説を読み、感想を述べて──というか酷評しています。
「それ〔『緋色の研究』〕にはちょっと目を通したが」彼は言った。「(中略)それはあたかもユークリッドの第五定理に恋愛話や駆け落ちを導入するのとまったく同じ効果を生み出した」
 これは何でもないように思えますが──ささいなことほど重要なのだよ、ワトソン君!──よく考えてみれば作中人物である登場人物のホームズが実際にコナン・ドイルの書いた本なんて読めるはずがない。しかし作中世界でも現実世界と同様に『緋色の研究』──を始めとするホームズシリーズ──は実際に出版されていて、ホームズもそれを読んでいる、という設定なのです。この設定はエラリー・クイーンなどにも受け継がれています。
 つまり作中における〈このテクスト〉が、フィクションの世界の住人は現実世界で流布していると知っていて──ときにはそれに対して酷評したり、嘆いたり──するのですが、これも従来のモダニズム文学では登場人物は知りませんでした。
 いや、ドイルやクイーンもモダニズム文学なんですが、メタフィクションで逆にリアリティを生み出しているように感じました。モダニズム文学以前では逆にドン・キホーテなどメタフィクション*3──もちろんセルバンテスはメタフィクションということは意識しているはずがありませんが──の要素が見られる作品もあります。
 また自分が精子だったころから始め、脱線につぐ脱線を繰り返すという、トリストラム・シャンディなどもメタフィクションの要素もあります。というかトリストラム・シャンディが20世紀に書かれたと言われても全く不思議じゃないよ! 白紙のページで「ご自由に想像して下さい」とか真っ黒に塗られたページとか斬新すぎて理解できないよ。

ナボコフ『絶望』におけるメタフィクション

 さて、通常の小説は「外」を意識しない、つまり、読者も意識しなければ〈このテクスト〉が小説として書かれていることも意識していないと言いました。しかしナボコフは過剰なまでに読者を意識しているのです。
 この章はどんなふうはじめたものだろうか? 書き出しの候補をいくつかお見せしよう。(中略)
 この書き出しのきわだった特色は一目瞭然だろう。
 このように作中人物のゲルマンは読者を意識しているのです。他にも読者に呼びかける場面が何度か見られます。もっと言えば、誰かに読まれていることを過剰に意識しているのです。
 しかしこれは果たしてメタフィクションという特殊な状況においてのみ言えるのでしょうか? ミシェル・フーコーによれば常に誰かから見られていると意識しています*4。
<一望監視装置>は見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛けであって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが決して見るわけにはいかず、中央部の塔の中からは人は一切を見るが決して見られはしないのである。
 つまり誰かに見られているかもしれないという意識を植え付けることで、より合理的に支配できるようになったと指摘しています。
 ゲルマンは『絶望』で読者へ饒舌なほど自分を語っているのですが、我々だって誰かに見られているかもしれないと考えています。しかしこれは一般的な話ではないように、僕はこの記事を書いてて思えてきました。
 ナボコフはソビエト時代の作家なんです。しかも『絶望』が書かれた1932年はスターリンが支配していました。まさに誰かに見られている、という意識が生々しく感じられた時代だったのでしょう。

*1 貝澤哉「解説」(ウラジミール・ナボコフ『絶望』光文社)。なお、これは『カメラ・オブスクーラ』(光文社)の解説でも触れられている。
*2 ディクスン・カー『三つの棺』(早川書房)
*3 セルバンテス『ドン・キホーテ』の後編では、前編がすでに流布してパロディが生まれていると書かれている。そしてこれは現実世界でも同じであった。ところが作中人物のドン・キホーテは読者のいる現実世界を知ることができないはずである。『ドン・キホーテ』がメタフィクションと呼ばれる所以はここにある。
*4 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(新潮社)


にほんブログ村 小説ブログ 小説読書感想へ