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カメラ・オブスクーラ (光文社古典新訳文庫 Aナ 1-1)

あらすじ

 美術評論家のクレッチマーは、若い愛人、マグダにうつつを抜かす。一方、マグダは別の愛人、ホーンとひそかによりを戻していた。
 マグダは言葉巧みに……というかクレッチマーが「盲目」なんですけど……クレッチマーを幽閉し、ホーンと財産を奪おうとする。それに気が付いて、クレッチマーはマグダに復讐しようと拳銃を取り出す。果たして結末は?

ロリータの起源

 さて、よく言われることですが、若い女性に世間知らずの中年男性が熱を上げて破滅するというのはナボコフのロリータと似ています。そして谷崎潤一郎『痴人の愛』とも。

男/女

 さて『痴人の愛』*1は譲治がナオミを支配するつもりがいつの間にか支配されているという構図を持つ作品なのですが、この『カメラ・オブスキューラ』にも当てはまります。
 理想はともかく現実の実態として、男=支配者、女=被支配者です。であるからこそ、様々なフェミニズム運動が起こっているのです。
 『カメラ・オブスクーラ』において、この支配、非支配の関係は男女にとどまった話ではありません。大人=支配、子供=被支配という関係もまた、クレッチマーとマグダの関係で特徴的だといえるのです。クレッチマーの支配欲を上手く使って、マグダは彼を支配しています。
 例えば手紙の一件、奥さんが中身を開けると知ってるはずなのに、マグダはクレッチマー宛に手紙を出します。
 「家内はぼくの手紙を全部読むんだよ、きみだって知ってるじゃないか……」(中略)
「やめさせればよかったのに」
 これは素朴な解釈をすれば、不倫相手が勢いに任せてラブレターを出したとも解釈できます。しかし、奥さんが読むと踏んで、手紙を出したのかもしれません。クレッチマーを奥さんから引き離すために。
 その場合、マグダはクレッチマーを手紙を通じて自分に有利な条件に誘導していることになるのです。

語りの問題

 さて、語り手は自由に、恣意的に物語を編集できます。大事なところをカットしたり、表現を変えて意図的に誤解しやすくしたり、過剰に語って印象付けたりすることも自由自在にできるのです。もしくは、嘘をついたりとか。
 最近の推理小説で一人称の語り手が出てきたら真っ先に僕は叙述トリックを疑いますが、この『カメラ・オブスキューラ』では語りの問題を意識的に扱っていると言われます。解説*2によると
 小説を読むということは言葉でできているので、すべての情報は当然ながら伝聞でしか入ってこない。映画やアニメや絵画なら、私たちは主人公の顔や家具の色を視覚的に即座に見ることができる。ところが小説の読者は何ひとつ直接見ることはできない。小説にか書かれた「描写」の言葉をとおして、場面や人物を間接的に「想像」することしかできないのである。
 これは確かに合っています。ミステリにおいて叙述トリックが成立するのも小説という独自の〈語り〉によってのみ支えられている部分があります。

創作の問題

 果たして小説特有の問題と言えるのでしょうか。つまり漫画、アニメではこの問題は解決されるのでしょうか。あらゆる物語には〈語り手〉が存在します。小説に限らず、漫画、アニメ、映画全てにおいて。もし〈語り手〉と映像、もしくはコマを作為的にごまかしていたら? 全く関係ないナレーションを流していたら?確かに色を視覚的に見ることができるのですが、もし自覚していない色盲の人が〈語って〉いたら?
 また〈語り〉の自由さを悪用しすぎると「うみねこのなく頃に」みたいな後出しジャンケンがいくらでもできてしまって、信用されません。ある程度の説得力を持たせるためにも物語で起きていることについて、全くのデタラメを書いては読者に信用されなくなるのです。
 創作ミステリでは〈正確な語り〉は幻想だというナボコフの問題意識がより深刻になってくると思います。何が正確な〈語り〉で何が不確かな〈語り〉かという区別が作者の評価と直結しているのですから。

現実の問題

 翻って現実の問題に目を向けてみす。僕たちは誰かの〈語り〉を通してのみ世界を把握できます。例えば、子供がお母さんに幼稚園の出来事を報告している場合、子供の〈語り〉を通してのみその出来事を把握します。
 まるでクレッチマーはマグダの語りによって世界を認識しているのですが、それと同じです。

主体と客体

 さて、解説でもあるようにクレッチマーは美術評論家で、「見る」ことを商売にしてます。貝澤さんも「『カメラ・オブスクーラ』は(中略)「見る」ことと「見えない」ことを巡って書かれている小説だ」とこの問題に言及しています。
 しかし僕の論点は「見る」「見られる」の関係です。美術評論家で絵画を見ているクレッチマーが事故で盲目になります。僕はこのときのクレッチマーが「見えない」だけでなく、マグダの愛人、ホーンによって見られる立場に置かれるという読みをしました。
 その頃、(中略)リビングではクレッチマーとホーンが向かい合わせになって座っていた。ホーンはわざと家に残っていたのだが、それというのもこのなんとも滑稽きわまりない共同生活の最後の日々をこころゆくまで堪能したいと願っていたからだ。
 つまり、クレッチマーは見る立場から見られるへと変化するのです。例えば、「ホーンは(中略)盲人〔クレッチマー〕(中略)を観察して」います。また物語序盤でも「盲人にペンキをわざと注意しない」というホーンの行動が出ています。一見ホーンの意地悪さを示すこの行動も見る/見られるという点から読めば、ホーンは見る立場に徹しているのです。
 作中作として登場する小説はまさに読まれるという点で客体です。クレッチマーはこの小説(の朗読)を鑑賞するということで、「見る」立場です。
 ところでナボコフは饒舌で円城塔に似てる点があるって友達が言ってたことがあるんだけどそうかなぁ。
 
*1 谷崎潤一郎『痴人の愛』(新潮社)
*2 貝澤哉「解説」(ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』光文社)


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