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燃えつきた地図 (新潮文庫)

あらすじ

 T興信所に勤める〈ぼく〉は女性から失踪した夫、根室洋を探してくれるように頼まれる。手掛かりは<つばき>という喫茶店のマッチの箱のみ。女性の態度は煮え切らなく、何かあれば「弟に聞いて下さい」の一点張り。しかもその弟は一方的に電話で連絡を取ってくるだけだった。
 仕方なく、つばきへ聞き込みへ行くが、何も見つからない。そんな折、弟から失踪者の日記を見せてもらえるという約束を取り付けるが……。

第一印象

 うん、まともだった。少なくとも足から<かいわれ大根>が生えてきたりはしないし、段ボールをかぶると姿が見えなくなったりはしない。ましてや自称火星人が押しかけてきたりして、火星の土地を買いませんか、と勧誘してくることもない。
 まともな小説。ただ失踪人がいつまでも見つからないばかりか、探偵自身が行方をくらますことを除いては。
 どうしてこうなった……OTL。探偵小説を書かせても安部公房だったよ! いい意味で。

失踪人

 都会では簡単に行方をくらますことができるという前提の話です。例えば架空の新聞記事が出てきますが、それによると「八万人を超える人が行方不明になっている」のです。事実かどうかは問題ではありません。

都市と農村

 問題は都会ではそれだけアイデンティティが希薄だということです。例えば一人ぐらしで、隣人づきあいも適当に挨拶程度にこなして、会社でも自分の生い立ちは語らず、自分のことは一切口にしないということもできます。もっと言えば、例えば隣人が会社ではどんな人か言える人はほとんどいないと思います。
 そしてこれは近代都市になって初めて現れたといえるのです。農村なら、生活の場=生産の場でしたので、自然にお互いの〈顔〉が見えていました。しかし、これが都市化、工業化、近代化すると〈顔〉が見えなくなるのです。
 これは探偵小説というジャンル性と密接に関わってきます。ヴァルター・ベンヤミンによれば、探偵とはまさに聞き込みをしたり証拠集めをしながら被害者のアイデンティティを取り戻す作業に他ならないのです*1。

写真

 この都市生活者の〈顔〉の不在は『燃えつきた地図』の他にもみられます。例えば失踪人が趣味で撮っていたヌード写真ですが、モデルの女性は顔が写っていません。それどころかモデルらしき人物を見つけて問いただしても、「後で証拠を残すような写真」は撮らせないと言うのです。
 これは二つの意味で象徴的です。
1つ目:写真は文字通り「真実を写す」と書きます。都市生活者の顔がない写真は文字通り、アイデンティティの不在を意味しているのです。
2つ目:見る、見られるの関係。都市というのは一方的に見られる関係が成り立つ社会です。そしてその一つとして大きな役割を担ったのがレンズです。レンズは双眼鏡などで人知れずに覗くことができます。
 また写真に収めてしまえば、知らない人が被写体に見られます。このように一方的に見る関係が文明の利器でできあがった社会と言えましょう。これは何も物理的な面だけに限らず、僕たちの倫理観にも影響を及ぼしています。例えば、一人の部屋でも素裸にならないのは、我々が常に「見られている」という架空の視点があるからです*2。

アイデンティティの回復

 まさに安部公房の問題意識、関心は都市生活者がどうやってアイデンティティを回復していくかの模索にありまります。
 探偵という職業もそういった意味で「燃えつきた地図」を頼りに根室のアイデンティティを取り戻す手伝いをしているかのように見えます。確かにベンヤミンが指摘しているのは、探偵、デュパンにより捜査が行われ、被害者の人となりが明らかになるという構図です*3。
 しかし、〈ぼく〉も最後には失踪してしまいます。少なくともその事が示唆されています。
 過去への通路を探すのは、もうよそう。手書きのメモをたよりに、電話をかけたりするのはもう沢山だ。
 とあるように過去と決別しています。これは〈ぼく〉も匿名的で記号的な人物だからなしえるのですです。第一に〈ぼく〉の勤め先はT興信所という匿名的な書き方ですし、名前も一切出てきません。第二に、笠井潔はコンティネンタル・オプシリーズに触れてオプも勤め人であるから、大衆と同様に〈顔〉を持たない登場人物だと分析しています*4。ここで注意して欲しいのはオプは名前ではなく調査員という意味です*5。

名前を付ける

 そしてこの「本名・素性・経歴等は明らかにされていない」*6ことは、『燃えつきた地図』の〈ぼく〉との共通点であります。しかし『燃えつきた地図』の〈ぼく〉はもっと徹底して匿名的・記号的になっています。コンチネンタル・オプが出てくる『血の収穫』*7ではポーカーやタバコを吸う場面が出てきて、趣味や嗜好品などが垣間見えるのですが『燃えつきた地図』の〈ぼく〉は一切そういう要素がありません。
 つまり探偵小説において特権的な位置づけである〈探偵〉でさえも一般人の座に引きずり降ろされ、『燃えつきた地図』では最後、失踪してしまうのです
名前を与えるということは個人を特定するための手段を与えることになります。ところが近代都市では死んでしか、しかも殺されてしか被害者のアイデンティティの回復がなされないのです。例えば人間関係を把握したり、被害者の足跡をたどったり。
 さて、そう言った目で見てみると「無意識のうちに、ぼくはその〔車に轢かれて死んだ〕薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を融かし、顔をほころばせる」とあります。
 「名前をつける」ことは個人を特定すると言いましたが、なぜ「贅沢な微笑」を浮かべたのでしょう? 『燃えつきた地図』の〈ぼく〉は自ら進んで失踪したのです。だからこそ依頼人とは「反対の方向に、歩きだ」したのです。
 贅沢な微笑とはまさに個人を特定されない優越感だと僕は解釈しました。




*1 ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論(一)』(岩波書店)
*2 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(新潮社)に出てくるパノプティコン参照。なお三人称の文学は近代以降に成立しており、それ以前は一人称か、もしくは手紙や日記などを〈語り手〉が見つけ、他者の視点を描いていた。
*3 ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論(一)』(岩波書店)
*4 笠井潔『探偵小説論序説』(光文社)
*5 wikipedia「コンチネンタル・オプ
*6 同上
*7 ダシール・ハメット『血の収穫』(東京創元社)


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