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カンガルー・ノート (新潮文庫)

経緯

 読書好きのマイミクさんから勧められた一作。
 『人間そっくり』も勧められましたが、まずはこの一冊を借りてみました。『カンガルーノート』を読み終えたら『人間そっくり』と、別の人がツイートしていた『燃えつきた地図』も読んでみようかな、と。
 あぁ『方舟さくら丸』とかも読みたいんだよね。安部公房は狂ってるとしか思えない作家なので、面白いんですよね。

概要

あらすじ

 ある朝、目覚めたら足から《かいわれ大根》が生えていた。念のため皮膚科を受診するが、ベッドに括りつけられた。しかも、それはそのまま地獄谷という硫黄温泉に向かうトロッコだった。
 そこの温泉の傍を流れる河原は、賽の河原で子鬼たちが石を積んでいたが、それは保育園児たちによる見せものだった。

安部公房について

 安部公房はぶっ飛んだ作品を書いています。昆虫採集に出かけて、砂に埋れる話とか、箱をかぶって周りから姿を消す話とか……。
 基地外すぎるだろJK。

かいわれ大根

 どう感想を書こうか迷います(笑)。でも安部公房にしたら<これでも>まともな小説。ストーリーがあるだけ、ね。
 さて本書は地獄巡りのパロディとも言えるような作品です。しかも最後に新聞記事からの抜粋で
 廃駅の構内で死体が発見された。脛にカミソリを当てたらしい傷跡が多数見られ(中略)た。
とあり、「ぼく」のことを指していると推察されます。
 つまり脛毛を《かいわれ大根》だと勘違いして、刈り取ろうとしてしまった。ここで注目していただきたいのはかいわれ大根という書き方です。この書き方は通常、特別な意味、隠喩的な意味として用いられます。本当の《かいわれ大根》とは限りらないのです。
 さて、最後の新聞記事ですが、ない方がいいと僕は思います。この一文で安部公房らしさを台なしにしてると言ってもいいと思います。この物語の最大の魅力は《かいわれ大根》などの隠喩から何を読者が読み解くかです。その読みを安部公房が提示しては魅力が台無しになってしまういます。
 とりわけ、この作品は『箱男』*1『他人の顔』*2に比べて安部公房ではかなりストーリー性のある話。なので一種の寓話みたいにしたら面白いのでは?おうちでカンタン!キッチン栽培!ミニプランター サラダスプラウト  〜かいわれ大根・ブロッコリー・からし菜〜
 読みを固定してしまわない方がいい理由は二つあります。
1.妄想と断罪してしまう。その結果、統合失調症やパラノイアなどの妄想を症状とする人の追体験ができなくなってしまう。
 文学の社会的な役割があるとすれば、自分とは全く違った人生を追体験できるということです。そして例えばそれは統合失調症などの狂人とされる人々の追体験をもできます。それによって、狂気への偏見をなくすることができるかもしれません。

現代人のアイデンティティ

 安部公房のモチーフとして現れてくるのが、現代社会で不安定な〈自分〉です。例えば「S・カルマ氏の犯罪」*3では、
 身分証明書を見てみました。すると妙なことに、名前の部分だけが消えてしまっているのです。慌てて手帳にはさめてあったパパからの手紙を出してみました。宛名の部分だけが消えていました。上着の裏の縫取を見ました。それも消えていました。
という名前=身分を証明するものがないと何一つできないという実態です。本来ならその人、例えば有沢翔治なら有沢翔治の人格、性格などに言及して初めてその人について語ったと言えます。家柄でも構いません。とにかくidentityはその言葉が示す通り、二つとないことが前提なのです
 しかし現代では、どこに住んでいるか、名前は何かという不確定な情報でidentityが決まります。例えば住所は引っ越しすれば変わりますし、名前も同姓同名がいたら区別がつきません。もしAという人が住んでいたとします。しかし同姓同名A’の人が引っ越した後同じ住所に越してきたら、郵便物は間違いなくAさんではなくA’さんに届くでしょう。またBさんがAさんになりすまして郵便物を受け取ることもできます。
 郵便配達員はAさんだろうがA’さんだろうが、名前と住所さえ合っていればその人だと思うのですから。このように現代人の自己同一性は常に不確定なのです。
 安部公房の小説はストーリーが不確定のままで終わり*4、それが上に示した現代を生きる自己同一性の不確定さを表しているように思えます。現に人間の自我は〈自己物語〉によって成り立っていて、それが崩れると鬱病などになるのです*5。
 それを踏まえて『カンガルーノート』を見てみますと、語り手の「ぼく」含め、固有名は一切登場していないことに気が付きます。これほどの長編にもかかわらず固有名を一切出さないのはむしろ意図的ではないかと疑われるほどです。
 そうしたことを考えると、死亡記事は「ぼく」が生きた証を伝えてしまっているので違和感があるんですね。生きた証など存在しないのが現代人なのですから。
 さてそれだけではつまらないのでもう一つ。先ほど僕は《かいわれ大根》という書き方に触れ、本物のかいわれ大根とは限りらないのではないか、と書きました。しかしその場合、語り手は《かいわれ大根》が脛毛ということを解っていたことになるのです。しかしこの場合、トンボ眼鏡も皮膚科医も脛毛だと解ってたことになります。

細部に注目すると

 細部に注目すると、きちんと伏線が貼られているんですね。こんな破綻したストーリーにも関わらず。
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 例えば、賽の河原の保育園ですが、「医院の右隣はアパートを改造した保育園」と保育園そのものは第一章に出てきます。また地獄谷で性病を疑われ、入浴を断られますが、「性病の患者になら大歓迎されそうだ」と書いてあります。
 また途中出てくるハナコンダ、アラコンダ、アナゲンタ、という言葉も「風が歌っている、ハナコンダ、アラコンダ、アナゲンタ」という手術室で聞く風の音ですでに出てきていました。



*1 安部公房『箱男』(新潮社)
*2 安部公房『他人の顔』(新潮社)
*3 安部公房「S・カルマ氏の犯罪」(安部公房『』新潮社)
*4 安部公房『箱男』(新潮社)。
*5 wikipedia「ナラティブ・セラピー」参照のこと。




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