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青色本 (ちくま学芸文庫)

概要

 哲学とは自分の問題意識を見つけ、自分で試行錯誤しながら解こうとする作業だと思っています。『青色本』は問題意識が冒頭に一言で説明されていて、その点非常にいい哲学書だと思います。
 また悪名高い『論理哲学論考』とは大きく違って、数式のたぐいが出てきません。日常の語彙で書かれています。ただ講義録だということもあり、ウィトゲンシュタイン自身もかなり頭の中が整理されていない印象。迷走したり、「うーん、そうなのかなぁ」と思いながら読みました。そして相変わらず他人を意識していない。壁に向かって話しているような……。僕の偏見かもしれませんが。

意味とは記号を操作するゲーム(のような)ものである

 言語ゲームですね。ウィトゲンシュタインは『青色本』において、子供が八百屋にお使いを頼まれるという想定で話を進めています。
 「八百屋からリンゴを六つ買ってきてくれ」と命じる。このような命令を[実地に]果たす仕方の一つを描写してみよう。「リンゴ六つ」という字句が紙切れに書かれていて、その紙が八百屋に手渡される。八百屋は「リンゴ」という語をいろんな貼札とくらべる。彼はそれが貼札の一つと一致するのを見つけ、一から始めてその紙片に書かれた数まで数える(後略)
 条件は八百屋の一件のみなんですが、つまり、リンゴという文字列を見つけ、メモに書いてある数字までカウントしなさい、という、手順です。頭の中に対応表がある感じですかねー。
 まだ『青色本』では、一つの業種でストレートです。『哲学探求』*1になると石工に「石」の例と他の業種の例と意味が違うことが挙げられています。確かに意味は共通の概念などではなくコンテクストによって決まります。
 例えばあからさまに暇な人に「忙しそうですね」と言ったらイヤミ以外何者でもありません。しかし見るからに忙しい人に「忙しそうですね」と言ったら、ほぼ間違いなく「手伝いましょうか」と解釈されます。
 このようにゲームと言っても勝敗があるわけではありません。例えばトランプのジョーカーが大富豪とババ抜きでは役割が違うのと同じです*2。

言葉とはコンテクスト?

 例えばこんな意地悪い問題を考えてみましょう。リンゴが並べられていて、そこに「リンゴ」と書かれておらずに「オレンジ」と書かれていた。バックヤードのミスか何かで間違って配列されてしまっていた。
 それで、子供がお使いにきて「リンゴ六つ」というメモを渡したとします。この場合、ウィトゲンシュタインの手順に従えば、オレンジを渡すはずです。しかし実際はリンゴを渡します。
 やはり頭の中でリンゴのイメージがあって、そのイメージに沿ったものを渡すということになります。つまり、言葉は内包的な定義、つまり辞書的な意味だと「熟すと赤くて、丸くて、甘くて……」というような理解の仕方だと思うんですよね。
 今後の僕の説明をしやすくするために犬を例に取ってみます。内包的な説明は
 「主人に忠実で、たまに噛んで、可愛くて、……」、外延的な説明だと犬の例を片っ端から挙げてくやり方です。柴犬、チワワ、ゴールデンレトリバー、ブルドッグ、トイプードルなど。
 しかし多くの人は見れば解ることはあえて言いません。例えば、リンゴの棚に正しく並べられているのに、リンゴが並んでいます、とわざわざ言いません。理由の一つは、正確に描写しようとするとキリがなくなります。
 例えば一枚の写真を細部に至るまでことこまかく言っているだけで、日が暮れてしまいます。例えば、上の書影を記述するのに、縁から上5ミリ、右5ミリ、左5ミリ、下7ミリのところまで白くなっていて、そこから黒い幅0.25ミリの黒い線が入っていて、下から3ミリのところに太めの明朝体で「ちくま学芸文庫」と書いてあって、……という記述はしません。
 また青い表紙の白抜き文字で「青色本」と書かれていて……という説明はお互い読んだことのある人ならしないでしょうね。筑摩文庫の『青色本』といえばそれで事足りるから。

メタファはどう説明する?

 ウィトゲンシュタインの説明だと人間に向かって(忠実な手先という意味で)「犬!」という文は言語ゲームでないと説明がつかないように思います。
 しかし、犬でないことは見れば解ります。なので、通例使われている意味以外で使われていると推察します。そこで犬の内包的な意味を思い出します。
 ここで重要なのは「主人に忠実で、たまに噛んで、可愛くて、……」という順番です。犬と聞いて思い浮かべる順序に並べてあります。見て違った場合、この内包的なイメージの順番に当てはめていけばいいのです。

言語ゲームの問題

 言語ゲームの問題は、そのゲームのルールが明示されないどころか、途中で変わってしまうということです。
 これ〔引用者中:別の定義、正しい定義で置き換えなければいけないという考え〕を数の定義の場合に較べてみよう。この場合、数と数字は同じものだという説明があの第一段階の定義渇望を満足させる。だが[続いて] だが一とは数字でないとしたら一体何なのだ」と尋ねずにいるのは至難のわざなのである。
 え? 数字じゃないんなら文字列でしょと思ってしまう人がいたらコメント下さい。同類の臭がしますw
 ウィトゲンシュタインの揚げ足取りといわれないように補足しておきます。言語ゲームでは言葉はその場その場で意味が変化するとお話しました。意味とはコンピューターの世界で演算の過程であり演算結果です*3。
 例えば1+1≡2なのですが、多くのプログラミング言語で文字列として扱えば"1"+"1"="11"と表示されるのです。
 これは正に『哲学探求』で述べられた言語ゲームと同じ理屈だと思います。

感覚

 言葉の「誤用」について述べられています。ダウジングをやってる人が、「地下五フィートに水があるのを感じる」という言葉に当惑も覚えません。また野矢は解説の中で
しかし、もし私が指を二本あなたの方に突き出して「君の財布に二万五千円入っているのを感じる」と言っとしたら、どうか。「君の財布に二万五千円入っていると思う」ならばなんの問題もない。(中略)「地下五フィートに水があるとはどういう感覚だというのか。これに対してウィトゲンシュタインは言う。「それはよくわかった組み合わせだが、われわれには今の所、まだ解らない仕方で組み合わせられているのだ。語句の文法はなお説明してもらわなければいけないのだ」
 と述べていますが何の違和感も覚えません。多分、両津勘吉とかきり丸なら多分、1円単位で言い当てそうで怖い。
 冗談は置いておいて、我々の知らない感覚で、とありますが、これは<私>の知らないと書き改めるべきです。だって後に歯痛の例で見るように、感覚は共有し得ないんですから。例えば、僕は軽い片頭痛持ちなんですが、ひどい人は眩暈と嘔吐もすると聞きます。
 また僕と全く同じ片頭痛は体験できません。頭がいたい、とか額付近が痛くなるとか言葉ではいくらでも言い表されます。けど言葉だけじゃ相手は経験不可能だって思ってるんですよね。そもそも同じものを見ていても、微妙に違いが出てくるのですから。青と紺とか、見分けがつきにくいよ! いっそのこと、色教えるときはカラーコードで教えてよ! カラーコードで教えてもらってもまだ不安なんだけど、だって相手が色盲とか色弱とかじゃないって言い切れないよね? 僕が色盲、色弱かもしれないし。
 そして色盲、色弱でもコミュニケーションは全く問題がないのです*4。したがって、相手が同じ言葉で語って、会話が成立しているからと言って同じものを見てるとは限りません。でも確かに同じものを見てる、という信念はあります。

*1 ウィトゲンシュタイン『哲学探求』(筑摩書房)
*2 Wikipedia「言語ゲーム
*3 より正確に言えば、「意味」は人間が与えるものであり、コンピューターは計算結果を出しているにすぎない。例えば、3丁目の9の2に住んでるとすると3−9−2と書いて、−8という計算結果を引き出せる。しかしこの結果にどれほどの意味があるのか。
*4 哲学的な何か、あと科学とか(クオリア(2)

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