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地球になった男 (新潮文庫 こ 8-1)

概要

 戦争でもし玉音放送が流れなかったとしたら……。小松左京の処女作「地には平和を」、江戸時代を行き来するタイムトンネルが見つかった「ご先祖様万歳」、芥川龍之介のパロディ「蜘蛛の糸」、もし紙がなくなってしまったら……。「紙か髪か」。
 何でも変身できるとわかり、地球になった男の話など多彩な才能を垣間見る短篇集。

パラレルワールドとシャドウ

 小松左京の作品にはパラレルワールドを扱ったものが多く見られます。処女作である「地には平和を」、芥川龍之介のパロディである「蜘蛛の糸」などが挙げられます。
 特に処女作「地には平和を」をユング心理学のシャドウを使って読み解くことにしましょう。

シャドウと二重人格

 文学の一つの形として、二重人格(ドッペルゲンガー)というものがあります。もっとも素朴な形として現れている作品はE・A・ポオの「ウィリアム・ウィルソン」*1です。これは自分と全く同じウィリアム・ウィルソンという名前の人間が現れ、「僕」に取って代わるという筋ですが、その中でこのように述べられています。
 ウィルソンの〔主人公に対する否定的な態度をとるという〕反抗は、僕にとって、ひどく困惑の種になった。(中略)内心では明らかに彼を怖れていた。
 ユング心理学派のカウンセラー、河合隼雄によればこの物語の類型は「もう一人の自分」、「そうであったかもしれない自分」を示しているといいます*2。そしてこういった物語の多くは、ウィリアム・ウィルソン含め、本体を支配するという筋なのです。
 河合隼雄は臨床例を挙げて、「そうであったかもしれない<私>」に恐れを抱いて振り回されることは、結果的に<私>を支配しているといいます*3。ユングはこの「そうであったかもしれない<私>」をシャドウと呼んでいるのです。

「地には平和を」とシャドウ

 さて、「地には平和を」において河野は小松左京の「シャドウ」です*4。
 そればかりでなく、小松左京にとっての「戦争継続の歴史」が「そうであったかもしれない歴史」という点でシャドウなのです。
「正しい歴史では、日本は八月十五日、天皇の詔勅によって、無条件降伏しているんだ」
(中略)
「日本が無条件幸福なんかする事があってたまるもんか!」
「それが本当の歴史なんだよ」
 確かに「青年」の言うとおり、日本は無条件降伏をしています。しかし、それは認識されている歴史です。精神分析の言葉を借りれば〈意識に登っている〉歴史だと言えます。
 繰り返しになりますが、小松左京の無意識において、「無条件降伏しなかったかもしれない歴史」があったといえます。

無条件降伏を受け入れるということ

 さていくつも心にパラレルワールドがあれば、精神を病んでしまいます*5。時空を歪めた犯罪者が「狂人」であったことがそれを示唆しています。
 平行する無数の歴史があってもかまわないじゃないか? 無数の可能性を追求する、無数の歴史的実験があってもいいのに、なぜ(中略)、人類が甘んじなきゃいけないのだ?
 と狂人は語っていますが、局長は「人間は自己を保つために、いくつもの可能性を放棄して来た」と語っています。自己を保つということは「狂人」、つまり精神病を患わないように、そうであった「可能性を放棄すること」、「拡散ばかりでなく収斂も必要」だと言っているのです。
 ここで注目したいのは「拡散ばかりでなく」という言い方です。この言い方には拡散も必要だという含みが感じられます。つまり、そうであった可能性(拡散)を考慮しつつも、最終的には統一的な一つの歴史にする必要があるのです。
 例えば「もし、無条件降伏をしていなかったとしたら日本はどうなっていただろう」という問いかけはアジア史を考える上では有用な問いかけかもしれません。しかし、そこにいつまでもしがみついていては後悔で精神を病んでしまうのです。

結末の意味

 さて、「地には平和を」というテクストが「正しい日本史」のドッペルゲンガーだと説明したわけですが、既存のドッペルゲンガーを扱った小説との違いに注目したいと思います。
 既存のドッペルゲンガーを扱った小説だとすでに述べたように、シャドウの部分が段々と本体を飲み込んでいくという筋が多いです。しかし、「地には平和を」は小説内における正しい歴史に飲み込まれることなく(つまり小松左京の歴史観に影響をあたえることなく)、「収斂」されています。
 いくつかのパラレルワールドを扱ったSFはシャドウを使って読解できると思うのです。

パロディ文学の楽しみ

 さてパラレルワールドを扱った物語「蜘蛛の糸」が収録されています。これはパロディ文学という観点から分析してみようと思います。
 パロディ文学とは言うまでもなく、本体があってそれを下敷きにした二次創作です。ですが、本体とは全く違った意味になってしまうことがパロディという手法です。つまり本体に対する皮肉、揶揄などが含まれているのです。
 ところで、言葉はコンテクストによって大きく意味が変わっています。ジャック・デリダはハイデガーの使っている精神という言葉がどう変化していったかを皮肉を交えながら論じています*7。しかしデリダの問題意識は言葉の変遷ではなく、「ある言葉」の持つ特権的な位置付けだったのです。
 さて、小松左京「蜘蛛の糸」に立ち返りますと、次のような書き出しから始まります。
 戦前、中学に学んだ人であったら有名な「蜘蛛の糸」という芥川龍之介の短篇をごぞんじであろう。(中略)
 ある日、おシャカ様は、極楽の蓮池のほとりを散歩していた。
 とパロディであることが示されています。それでは大元となった芥川龍之介の「蜘蛛の糸」が特権的な位置づけを占めるでしょうか。小松左京の「蜘蛛の糸」はあくまでもしょせんは二次創作?
 しかし芥川龍之介の「蜘蛛の糸」も「今昔物語集」に着想を得た二次創作です。だとしたら、「今昔物語集」が特権的・起源的(オリジナル)な物語なのでしょうか。いや、「今昔物語集」も話を拾い集めて編纂された物語集にすぎず、その起源は日本はもちろんはるかインドの話も収録されています。
 ではその民間伝承が特権的な位置づけでしょうか。確かに「民間伝承」というカテゴリで言えばそう言えるかもしれません。しかし、民間伝承は口で伝わっている以上、伝える人によって解釈が入ってしまいます。つまりあらゆる文学(エクリチュール)は口承(パロール)が一次的・起源的にあるのです*8。

エクリチュール批判

 以前、ブログにも書きましたが、「紙か髪か」は科学批判になっています。しかもそれは書き言葉(エクリチュール)批判になっているのです。
 人間の文明は、思えば何とたよりないものの上に基礎をおいていたか! パピルス発明以来、四千年にわたり、人間はこの軽く朽ちやすいものの上に、自己の精神をうつし出して来た。記録し、伝え、証拠とし、──文明と富と組織の大部分が、この紙の上に築かれていたのだ(中略)。人間は自分自身の証を失ってしまったのだ。
 ジャック・デリダの『グラマトロジーについて』*9は文字と数学や自然科学との結びつきを論じたものなのですが、小松左京の問題意識は自然科学批判です。
 ところで、ジャック・デリダはパルマコンという概念を使い、文字(エクリチュール)は治療薬と同時に毒であると言っています*10。それは記録には残るが、記憶しようとする意志を我々から奪う、という副作用があるからです。文字が両義的な存在であるなら、それによってもたらされる自然科学も両義的な存在です。「一つの災いを除けば(中略)それが別の災いになるわ」というように「紙か髪か」はエクリチュールの両義性について言うように触れられています。


*1 ポオ「ウィリアム・ウィルソン」(ポオ『黒猫・モルグ街の殺人 他五篇』岩波書店)
*2 河合隼雄『影の現象学』(講談社)
*3 河合隼雄『コンプレックス』(岩波書店)。なお、『コンプレックス』では料理が好きだという同僚に病的なまでに嫌悪感を抱くという症例が紹介されている。カウンセリングを進めていくと、幼いころ、料理を習わせてもらえずすごくイヤな思いをしたと語った。つまり、この患者は同僚に「もう一人の自分」を見出し、そこに憧れを無意識のうちに抱いていた、と河合隼雄は分析している。
*4 小松左京『地には平和を』(新風舎)あとがき参照。
*5 注3参照
*6 例えば「もし原発を作っていなかったら、放射性物質による汚染は免れていただろう」というif歴史から先進国の教訓へ生かすことができる。歴史学の本流かどうかは別としても。つまり何のためにその問題を提起するのかが重要なのである。
*7 ジャック・デリダ『精神について』(平凡社)
*8 Paroleとparodyの語源は全く別物だった(英語語源辞典より)。
*9 ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』(日本思想新社)
*10 ジャック・デリダ『散種』(法政大学出版局)



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