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社会学の根本概念 (岩波文庫)

概要

 マックス・ヴェーバーが『社会学の根本概念』を記述しようとした、わずか100ページ足らずの小冊子。未完成(遺稿か?)なので荒削りの感じもあるが、諸概念についての記述を試みています。
 もう一つの特徴は社会を人間一人一人の行動の面から記述していることです。その点に関しては、心理学、とりわけ行動心理学なんかと共通する点があると思います。

そもそも社会学とは?

 ヴェーバーは『社会学の根本概念』において、社会学とは「社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明する科学」です。
 ちなみに、僕は社会学を「科学」と表現することに違和感があります。科学は定量化できるものを対象とするのですが*1、ヴェーバーの文脈だと定量化はできませんよね。経済学なんかは定量化できる分、まだ科学的である感じがしますけど。
 もちろん、「科学的」ではないからと言って学問的ではないとは言いません。「学問」とは観察と論理に基づいて批判をすることで、これはどの学問でも同じことです*2。

意味とは

 ヴェーバー社会学の方法は社会を構成しているのは人間であるという前提にたっています。そしてその人間がしている社会的行為を探求しています。
 行為とは「主観的な意味を含ませている行動を指し」ています。つまり、コミュニケーションを取ろうと思ってツイートする、同級生とつながろうと思ってfacebook を始めるなどなどです。
 行為が実際に行なわれるか、感情としてとどまるか、何もしないかは関係ありません。ここで注意して欲しいのは「客観的に正しい意味とか、形而上学に解明された真なる意味」ではなく、あくまでも個々人が主観的に考えている意味なのです。
 ヴェーバーが考える「意味」の一つに、「ある歴史上のケースにおいて、一人の行為者が実際に主観的に考えている意味」──個人の考え──、「多くのケースを通じて、多くの行為者が実際に平均的近似的に主観的に考えている意味」──平たくいうと一般的な考えです──とがあります*3。
 ミシェル・フーコーとちょうど正反対の考え方を取っています。フーコーは権力者が価値(=ここでいう「意味」)を作って、それを大衆に広める、という考えです。ヴェーバーは「大衆」の「平均的近似的な考え」が意味になる、という考えです。
 ポストモダン大好きっ子の僕はフーコーの「権力者が価値を作る」という意見に大いに賛同です。とりわけ『監獄の誕生』*4で述べられている教育については未来の「大衆」を作るという考えは賛成する面が多い。現代ではこれに加え、マスコミも価値を作るのに大きな役割を果たしていると思います。
 ヴェーバーは意味に重きを置いているようですが、メルロー=ポンティも意味に重きを置いています。とりわけ、『弁証法の冒険』*5ではヴェーバーを使って、サルトルのマルクス主義を批判しています。

意味のある行為

 ヴェーバーは「意味のある行為」を理解可能な行為と定義しています。そして理解可能な行為を社会的な行動と(つまり人と人とのつながりとの関係で)解釈していくのです。
 言語で十分に伝達し得ない過程は、この体験を知らない人たちには完全に理解することは出来ない。その反面、自分で同じ行為を行なうことが出来なければ、理解することが出来ないというわけではない
 とあります。これはハーバーマスにも受けつがれる考えだと思うなのですが、「理解する」ことの考察が粗っぽい。
 「言語で伝達できる十分できる過程」でも完全に理解できるとは限らない。むしろ問題なのは伝達できた、という保証が得られないことにあります。話が噛みあうからといって、自分の意志が伝達されているとは限りません。
 例えば先日こんなやりとりがありました。現場の人から「クーポン発行するのは勝手だけど、ちゃんと現場の人に言ってね」と。
 僕が申請してるのはネット上で広告を出すgoogle adwordsのクーポンや、yahooで広告を出すロコプレイスのクーポンで、現場に絡むクーポンは一切発行してません。
 で、どう返事をしたかというと「はい、解りました」と。
1.相手はPC絡みのことはみんな僕がやってると思いこんでいる
2.定時30分前だったので、説明するとややこしい。
3.僕が絡んでないと証明しても、そんなに双方にメリットがない。むしろ関係を悪化させて、業務に支障をきたすかもしれない。
 こういった状況は会社では日常茶飯事だと思います。このように話が噛み合っているからと言って、さまざまな理由で意志の疎通ができていないことがあるんです。
 さらにはアンジャッシュのコントのように、一見、意志の疎通ができているように見えて双方が誤解したまま話が進んでいく場合もあります。

理解について

 もっと根本的な問題を言うなら、観察者によってある行為が「理解ができるか」「理解ができないか」は大きく違ってくるところですよね。
 ヴェーバーは「理解」を二種類、すなわち合理的であり数学的なものと、芸術を鑑賞する時の「感情移入」とに分けます。しかしこの感情移入はクセモノだと僕は思っています。相手が自分と同じ気持ちを持っているなんて証明できません。
 もっともこの点については、
私たち自身の究極的価値が〔有沢注:その行為者と〕根本的に違えば違うほど、感情的想像力によって追体験的に理解することは難しくなる。そういう時は、事情にもよるが、究極的な価値を素直に所与として受け容れた上で、出来るだけ知的に解釈し、出来るだけ感情移入によって追体験に迫った、その地点にたって、そこから究極的な価値を目指す行為の過程に理解に力めるほかはない。
とヴェーバーも認めていますが、あくまでも追体験や感情移入を重視しています。ここに僕の考えとの大きな差があります。僕は始めからこういった問題を考える際に感情移入はノイズだと思って、できるだけ除去しようとします。この辺りは恐らく精神分析、特にフロイトの流れをくんでいると思うのですが。

暴力装置

 この辺りは『職業としての政治』に詳しく乗っているのですが、『社会学の根本概念』でも乗っているのでもう一度。マックス・ヴェーバーの「暴力装置」は「秩序の支配を要求し、これを暴力行為によって保証する」メカニズムのことです。
 平たく言えば、秩序を守るために、「暴力」を振るう権力を法的に認めるということなんですよ。例えば消火活動の時に邪魔な私物を消防隊員はどかしてもいいのですが、これもヴェーバーの規定する「暴力」です。ドイツ語のgewaltの言葉の意味範囲がわからないので詳しいことは解らないのですが、より多くの人を守るために一部の人の権利を制限せざるを得ない場合があります。
 しかしその権利を制限する権利は誰にでも与えられているわけではもちろんありません。警察、消防、軍隊、と言った限られた機関にのみ与えられています。そしてその機関を「暴力装置」というのです。
 この辺り、自分の権利を守るために一部の権利を国家に譲渡するという点で、ホップスの『リヴァイアサン』と絡んでくると思うのですがどうでしょう。

*1 僕の「科学」に関するイメージは、1.再現可能性があること(追試験を行えること)、2.定量化された数字を扱っていることの二つ。
*2 例えば文学の場合でも、あるテクストを読み(=「観察」)し、「論理的な」解釈を加えることが重要である。
*3 よくこの二つを混同する人がいる。
*4 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(新潮社)
*5 モーリス・メルロ=ポンティ『弁証法の冒険』(みすず書房)


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