ジャック・ラカン対象関係(上)

要約

 対象a……というとどうしてもあの音楽が思い浮かんじゃうんですけど、本家です。対象aというのは「欲しい何か」です。aというのは任意の何か、つまり変数なんです。まぁ、ラカンは数学に強いコンプレックスを感じてたみたいで、トポロジーだのわけわからん数学用語を借用しながら語っていて、そこがラカンはわからんもんにしてるものの大きな要因なんですけど。
 上巻は概念的な報告であり、下巻はフロイトが報告している症例を許にしたラカン流の読解です。これがミステリーの解決編でも見てるような感覚でした。

シェーマとは

 シェーマとは自我とエス、他者、〈大文字の他者〉との関係を図式化した図のことです。ここでいう自我とは無意識+前意識+意識の三層構造からなる主体のことです。
 エスとは感情とか欲求・欲望がつまっている無意識の一領域なんですね。
 〈大文字の他者〉とは自分を見下ろす客観的な視線のことです。この〈大文字の他者〉の考えと実は対象aが結びついているのです。〈大文字の他者〉を得るきっかけとなるのが父の厳命、つまり母親離れの命令なのです。そして後述しますがこの母親離れの命令──つまりオレの嫁を取るなという命令こそが、対象aと深く関っているのです。

精神分析の危機

 これは僕が精神分析、特にラカンを読む追っかけてる一つのきっかけなんですけど、ラカンって理解しがたいんですよね。自然科学(特に古典力学)や数学は僕にとって理解しやすい。だっていざとなったら計算なり実験なりで確かめられますからね。例えば重力加速度gを計りたいときは実際にボールを落としてみればいいし、光源と地球儀とボールがあれば月と太陽と地球の位置を知ることができます。
 またコンピューター科学なんかも実際に家のPCを使って実験すればいいでしょう。しかし、精神分析、しかもラカンなんかは前提がそもそも目に見えない心の動きです。錯語行為は誰しも経験があるので解ると思うんですよ。でも超自我はまだしもエディプス・コンプレックスとかになると言いたいことは解るから、余計に違和感がある。で、アンナ・フロイトの言う防衛本能も解るし経験がある。しかし、ラカンは経験の対象外なんですよね、というかそもそも正しくセミネールを読めているのかも解らないので、まずはセミネールを読むことから始めようかと思ってます。
 というのもダメかどうかは理解してからじゃないと決められないんですよねー。それは話を聞かずに頭ごなしに決めつけてしまう態度なので。実際僕が抱いてるような感覚はラカンのセミネールにおいても語られています。
「では、あなたはいったい何を根拠として求めるのですか。考えてみてください。技師にとってはこの水の落下がすべてです。〔水力〕発電所に貯蔵されるエネルギーのことを言われましたが、そのエネルギーが据えられている場所には以前からあった潜在エネルギーの変形に他なりません。計算をするためには水が放出される所の水面の高さを計れば十分です(後略)」
 ちょっと物理的な話をするなら、もののエネルギー=位置エネルギー+運動エネルギーなんです。まずフロイトはエネルギー保存則に示唆をうけ、理論を構築した*1らしいです。まあ、たしかにリビドーやなんかはその影響を感じますが。
 ここでラカンが言いたかったのは、水力発電の技師が、あるいは物理屋が、エネルギー保存則を前提としているように精神分析も「神話的な何か」から出発しなければ行けない、と言います。
 ここで発電所の例えを示したのは作為的だと思います。つまりリビドーの流れでも「エス」、つまり欲望(水車)が働き、人間を行動させているのだ、という世界観を提示しているのです。
 これはフロイトの治療経験から言えることでして。

象徴界との出会い──フラストレーション

 でも欲望はなかなか満たされませんよね。僕はそんなことありませんが、お金はあればあるだけ欲しくなる人もいますし、愛が欲しいという人もいるでしょう。
 そういった欲望が満たされない状態がなぜ続くのかを考えて、解消していこうというのがラカン派精神分析の実際的な役割だと思っています*2。欲望の対象について「人間が対象を発見する仕方はすべて、失われた対象、再発見すべき対象をめぐるある傾向の結果であ」ると述べています。
 ここで重要な役割を演じるのは母親の存在だといいます。
母は(中略)それ自体まったくどうでもいい、いかなる生物学的価値ももたない対象をつかむ遊びから、母はそれとして出現するのです。対象はこの場合は糸巻きですが六ヶ月の幼児がベッドの縁を越えて投げ捨て、また取り戻すことのできるものならなんでもよいのです。
 例えば「いないいないばあ」のような遊びがその典型でしょう。つまりいつもそばにいると思っていた母親がふと側から離れる、しかしすぐに見つけることができる、という「現前─不在という組み合わせの中にすでにフラストレーションの動作主の最初の設立が含まれている」と言っているんです。対象関係〈下〉
 「現前─不在は、主体にとって、呼びかけという領域で分節化されるということです。母という対象はまさにそれが不在のときに呼びかけられます」という風にまた呼びかけ自体も母との断絶をあらわすきっかけとなります。
 つまり呼びかけられることで名前の違いを認識し、そして母との一体感を失う、という僕の解釈です。そしてこの母との断絶の体験が象徴的な言葉の世界におしやられ(人間はことば*3でしか物事を表せない、ラカンは考えているようです)

世界は言葉の総体である

 ここで注意していただきたいのは「世界は言葉の総体である」(論理哲学論考)と考えたウィトゲンシュタインです。確かに似ていますが、ウィトゲンシュタインの世界認識はすべてのイメージをテキストに置き換える、例えば、ベッドの写真があって、それは木製で「どこのメーカーの大きさは縦どのくらい……というベッド」というテキストデータで処理しよう。つまり、ベッドの写真は邪魔だって言ってるのです。しかし、ラカンはベッドの写真を語るには限界がある、と言ってるんです。どんなにがんばっても一致しない。
 ベッドの写真も現実のベッドの肌触り、臭いなどは捨象されますけどそういう言語化できないものが出てくる、と言ってるんですよ。ここで正反対のことを言ってることに気付かされます。ウィトゲンシュタインは世界は言葉で把握できると言っているのに対し、ラカンは言葉じゃ現実は把握できない、と言っているんです。
 ちなみに僕の世界観だと──僕の記憶の仕方は特殊なのが、先日解りまして──いったん言葉に置き換えないと記憶できないんです。例えば緑色のジャンパー、とかね。
 僕は認識〈自体〉、認識、存在の三つに分けて考えなくてはならないと思っております。例えば、幽霊が見える子がいたとして、認識は幽霊を見た「と語ること」、認識自体は幽霊が「見えること」、存在は物理的にいるかどうか、である。ラカンの象徴界の概念と認識とは異なっている、と思う。
 そして普通という幻想を打破し、差別の心をなくすためにはこの考えが重要となってくると思うのです。例えば僕はホモセクシャルの認識〈自体〉は解りっこないのですが、ここで解り合おうとしなければ、一生、ホモ=キモいというイメージで終わるのです。しかし彼らから話を聞くなどして認識を知ることができます。もちろんここで注意しなきゃいけないのは、ホモセクシャルの認識を知ったからといって認識〈自体〉を知ったことにはなりません。
対象 a

対象a──「笑うせぇるすまん」と源氏物語

 画像はネタですよ。でもこの歌はラカニアンの心をくすぐりまくる件についてwww
 さてそのように母と子の断絶はもう一つ。乳房から離れることによってなされますが、これは同時に発話、つまりことばの獲得と密接な関わりがあるとラカンは指摘します。
 ここ*4が非常によくまとまっているので参照していただくとして、要するにママンと離れることで仮想の(つまり、象徴的な)ママンの愛を欲する。これはたぶんユングのグレートマザーともかぶってくるんじゃないかしらん。
 そして、その「仮想のママンの愛」が対象aなのです。わかりやすいのが藤子・富士雄の「笑うせぇるすまん」の第01話、「頼もしい顔」です。本作品においていくつかの作品で、この対象aが満たされたが故に崩壊する(あるいは崩壊をほのめかす)という逆説的な関係になっているのも、実におもしろいところだと思います。
 さてもう一つ対象aが満たされない話があります。源氏物語です。源氏君は桐壷と一回寝ます。しかし対象aが満たされた途端にそれが永遠に満たされない世界にまさに父の厳命で引き渡されるのです*5。
 ちなみにセクロスの時にやたらおにゃのこの胸にこだわるのはもしかしたらこの乳房離れの経験が深く関っているのかもしれない。つまり対象aを求めているのかもしれないなぁ、と。でもそうすると女の目から見るとどう映ってるんだろう。たぶん失われたと思ってるファルスを求めてるんだろうか。でもいくらなんでもこれは訊けない(笑)。
 あとホモセクシャル同士、特に男性同士のセックスはファルスの求め合いなんだろうか

*1 小此木啓吾『エロス的人間
*2 だから仏教と関ってくる。
*3 もちろんラカンの言うことばとは単に発話行為のことではありません。意味と意味内容を持っている一連の言語体系を言います。例えば海の写真と海そのものとの結びつきもことばです。
*4 あぶらすまし「対象aの生成過程」(『アブラブログ』)。ちなみに同ブログにはラカンとデリダの論争(手紙は正しく相手に届くのかを論じた「彼は哲学者で、私は臨床家だからだ」)があり、精神分析を読み解くにあたって非常に参考になる。他にもラカンを用いた発達障害の解釈など、ラカニアンっぽさが随所に伺える。
*5 この話とソフォクレスの『エディプス王』は類似するモチーフが多いのはなぜだろう。

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書誌情報
著者:ジャック・ラカン
書名:対象関係
出版者:岩波書店
分類:人文科学
分類:精神分析

分類:哲学
分類:フランス現代思想

件名:フロイト