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現象学の理念
 なんか『デカルト的省察』と『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を足して二で割ったような感じ。つまるところ言ってしまえば、フッサールの考えはこの初期の『現象学の理念』に集約されているといってもいいと思います。(これは解説でも述べられていますが、僕の実感としてそう思いますね。
 まずフッサールは本気で学問を(というか哲学を)変えようとしていた、と思います。これは『ヨーロッパ諸学の〜』の冒頭部分でも述べられていることなんですけど、要は実証主義に陥りすぎている、と批判します。そして『ヨーロッパ諸学の〜』では何で実証主義におちいったのかを分析しています。
 真理とはもっぱら世界が、すなわち物理的ならびに精神的世界が、事実上なんであるか、を確定することだ、というわけである。しかし、もし諸科学がこのように、客観的に確定しうるものだけを心理だと認めるのだとしたら、また歴史の教えるのが、(中略)理想や規範が束の間の波のように形づくられては消えていくもの、(中略)いつも理性が無意味に転じ、善行がわざわいになるということなのだとしたら(中略)われわれは果たして生きていくことができるのだろうか?(フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)
 一方、『現象学の理念』においては「学問上の自然的な思考体系にくみいれつつ。好みの理論にふけることとなるが、この理論たるや、つねに矛盾もしくは不合理の結末をもっておわるのだ。──未決の懐疑論に向かう傾向」とあるように弱い言葉ですが学問の論理的な正当性に向かって疑問が投げられています。そして学問の論理的な正当性とその解決策こそがフッサールの大事なテーマとなってます。
 だが論理学そのものが疑問視とされ、問題とされるとき、矛盾にうったえてもなんの役にもたたない。じっさい、自然的思考にとってはまったく疑問の余地なしとされる論理方法のりあるな意味が、いまや疑問とされ、それ自身疑わしいものとされてきているのだ。
 フッサールはもともと数学から、哲学に移転します。数学というのは厳密に定義された世界、ルールに基づいて行う学問なんですが……、その学問形式が正しいかどうかの証明はできないという証明が出てきてしまいます。ややこしいですが例えば2x=4 ∴x=2という証明はできても移項というルール自体が正しいと証明したわけではないのです。これが有名な(ですよね)ゲーデルの不完全性定理です。
 そして厳密な学の頂点みたいな数学がそんな証明ではあらゆる学問の正当性が失われてしまいます。そしてその萌芽は初期の『現象学の理念』においても立ち現れてます。
 そこで解決策として提示されているのが、「現象学的還元」です。デカルト的に考えて、つまりあらゆるものを疑おうというスタンス。例えば「リンゴは赤い」という真理は今まで見てきた(と思われる)リンゴはたまたま赤く見えていただけで、もしかしたら本当は赤くないのかもしれません。目をつむれば、リンゴは赤い、というものは理念上の(イデアルな)ものとしてしか扱われないし、触覚や、味覚や、嗅覚もそれと似たものに誤魔化されているのかもしれません。
 ミステリの話をすれば、録音テープを流して生きているように錯覚させるというものがあります。あれも声がする=存在するというものを上手く利用しています。つまり、
「ある、と思っているものはあると思っているからあるんだよ!!!」
「な、なんだってー」
 という結論になるんです。より哲学的にいえば(あまり好きじゃないですが)「確信の構造」という問題になってきます。で、フッサールは論理的*1なものが破綻をきたしているから直観に頼ろうと言い出します。
 「直観的にとらえるもの意外なにも思念しない直観において、なおも疑問をいだき、疑うのはなんの意味もない」と述べ、「究極のものであ」り、「絶対的に自明のもの」と述べます。直観とは「五感や類推などに頼らない論理」のことです(11月17日追記。直感→直「観」に)。確かに「好きになるのには理由なんてない!」というのと同じ理屈でしょう。しかし、僕はその好きになるにも理由は自覚してないだけで、〈隠された理由〉があるんじゃないですかねー。
 僕思うにフッサールのやろうとしていたことは、認識を分割してその最小単位を作ろうとしていたことにあると思うのです。だからある意味ではライプニッツの『単子論』との共通項も見出せるかと。

*1 リーマンとか

現象学Memo


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書誌情報
著者:エドムンド・フッサール
著者:フッサール
タイトル:現象学の理念
出版者:作品社
分類:人文科学
分類:哲学
分類:現象学
国籍:ドイツ